漢詩と中国文化
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陸游:漢詩の注釈と解説


陸游が生きた時代
陸游の誕生

三山杜門作歌:陸游動乱を生きる
別曾學士:陸游を読む
釵頭鳳:陸游を読む
沈園二首:陸游を読む
夢に沈園に游ぶ:陸游を読む
夜讀兵書:陸游を読む
新夏感事:陸游を読む
泛瑞安江風濤貼然:陸游を読む
東陽觀酴醾:陸游を読む
送七兄赴揚州帥幕:陸游を読む
燕堂春夜:陸游を読む
遊山西村:陸游を読む

宿楓橋:陸游を読む
晚泊松滋渡口:陸游を読む
定拆號日喜而有作:陸游を読む
南鄭馬上作:陸游を読む
山南行:陸游を読む
歸次漢中境上:陸游を読む
劍門道中遇微雨:陸游を読む
三月十七日夜酔中作:陸游を読む
夜讀岑嘉州詩集:陸游を読む
九月十六日夜夢駐軍河外遣使招降諸城覺而有作:陸游を読む
金錯刀行:陸游を読む
樓上醉歌:陸游を読む
和范待制秋興其一:陸游を読む
東郊飲村酒大酔後作:陸游を飲む
春愁:陸游を読む
浣花女:陸游を読む

登賞心亭:陸游を読む
楚城:陸游を読む
春晩:陸游を読む
小園 其三:陸游を読む
九月三日泛舟湖中作:陸游を読む
贈貓:陸游を読む
寄題朱元晦武夷精舎:陸游を読む
臨安春雨初霽:陸游を読む
明州:陸游を読む

故山:陸游を読む
晩秋農家:陸游を読む
秋晩閑歩隣曲以予近嘗臥病皆欣然迎労:陸游を読む
讀陶詩:陸游を読む
秋晚:陸游を読む
東村二首:陸游を読む
飯罷戯示隣曲:陸游を読む
三月十六日至柯橋迎子布東還:陸游を読む

陸游最後の出仕
甲子歳元日:陸游を読
灌園:陸游を読む
衰嘆:陸游を読む
懐旧:陸游を読む
山村経行因施薬五首:陸游を読む
素飯:陸游を読む
八十四吟:陸游を読む
示兒:陸游の辞世の句



陸游は南宋を代表する大詩人である。単に南宋を代表するばかりか、中国の文学史上に屹立する巨人である。その名は、唐の李白、杜甫、白居易、韓愈そして北宋の蘇軾と並び、唐宋の六大家と称される(乾隆帝勅撰「唐宋詩醇」など)。

陸游の詩は、二つのタイプに分類される。一つは閑適敷腴といわれるもの、もうひとつは忠義憤激といわれるものである。閑適敷腴とは、世俗を超越して自然の美や心の余裕を歌うもので、したがって政治の事とは無縁の世界である。一方、忠義憤激とは、政治に深くコミットし、世の中の腐敗を糾弾したり望ましい政治のあり方を主張するものである。したがって政治的な色彩がきわめて強い。

このそれぞれに対立し矛盾しあう詩風が一人の詩人の中で展開される、それが陸游という詩人である。こうした詩風の多様性は、杜甫や蘇軾にも見られないことはないが、陸游の場合には、その落差が余りにも大きいので、これが同一の詩人の手になったものかと、疑問を生じさせるほどなのである。

日本では、李杜、白居易など比べ陸游の受容は遅れた。江戸時代になってやっと本格的に受容されたという経緯がある。それも閑適敷腴の詩風に属するものが中心で、忠義憤激の詩はあまり顧みられなかった。その辺は中国における陸游受容と大分異なっている。

中国では、陸游は生前から高名で人気があったばかりか、死後その名声は高まるばかりだった。特に明代や現代における評価は高く、現代では李杜とならんで、中国文学史上最大の詩人であると評価する人が多い。そういう人たちは、陸游の忠義憤激の詩が醸し出す強烈な愛国心に共感するのである。

陸游の愛国心には歴史的な背景がある。陸游が生まれた翌年、宋は女真族の金によって滅ぼされ、亡命政権である南宋が発足した。南宋は金との間で屈辱的な平和条約を締結し、淮河以南を勢力圏として維持する見返りに、金に対して毎年莫大な貢物を贈ることとなった。臣従することによって生き残りを認めてもらったのである。

こうした祖国の状態に、陸游は我慢できなかった。彼の愛国心が祖国のふがいなさを批判し、北に攻め上って領土を回復することを主張せしめたのである。しかし、陸游の同時代人たちには、金と戦って領土を回復するよりも、金と妥協して細々と生き残る道を選ぶものが多かった。そうした主流派の官僚たちにとっては、陸游のような人間は、正論を主張するあまり国を危うくしかねない無謀の輩、憎むべき敵と映った。それ故陸游の生涯は、迫害に満ちたものになり、その結果、官僚としてあまり出世することはできなかった。

陸游は85歳という長寿を生きた。しかも死ぬ直前まで身体健全で、目もよく利き、読書の傍ら膨大な数にのぼる詩を書き続けた。晩年の陸游は日記代わりに詩を書いていたらしいのである。その結果陸游の残した詩は膨大な数にのぼる。一説には、陸游は生涯に三万首以上の詩を作ったとされる。現存する詩の数でも九千二百首に上る。その大部分は晩年の作であり、80歳以降の作だけでも三千首に上るから、驚きである。

陸游の現行詩集は明代に汲古閣から刊行されたものである。これは陸游の死後息子たちによって刊行された「剣南詩稿」を底本にしている。それは更に、陸游自身が生前に刊行した詩集をベースにしたものだが、陸游は自らその詩集を刊行する際に、作品を取捨選択して、多くの詩を廃棄したといわれる。陸游の現行詩集に若年の頃の作品が少ないのは、そうした事情による。

陸游の生涯をおおざっぱに特徴づければ、郷里の紹興をベースにして、官僚として首都或は地方へ赴任しては、ごたごたに巻き込まれて免職され郷里に戻るというパターンの繰り返しということになろう。そして65歳にして4度目の免職を食らった際にさすがに観念して官僚生活からの引退を決意したということになる。引退といっても、いまのように完全にクビになるわけではなかった。官吏としての身分を保有したまま、いわば待機状態に置かれたのであり、チャンスがあれば職務に復帰することが期待できたようである。事実陸游の場合にも、七十歳を過ぎて職務に復帰している。

ともあれ、陸游には紹興という生活の拠点があった。どんなに落ちぶれても、最後は郷里に行けばなんとかなる、こうした事情があったから、陸游は大胆不敵になれたのかもしれない。その点では、李白、杜甫、蘇軾といった詩人たちとは大分事情が異なるのである。

陸游には詩風の変遷があった。閑適敷腴、忠義憤激といったテーマに即した詩風の変化のほかに、時間の経過に伴うスタイルの変化もあった。少年の頃は曾畿に支持し、江西派の詩風を体現した。江西派とは、黄庭堅を始祖とする流派で、卑俗を忌み嫌い、古典的な端正さを追求したもので、多分に技巧に走るところがあった。そうした詩風を、後になって陸游自身が否定するようになり、したがって江西派の影響が強かったと思われる初期の作品の殆どが廃棄される運命に陥った。

今日もっとも陸游らしい詩風と思われているのは、抒情的でありながら抒情が惰性に流れず、形式的にコントロールされているといった点だろう。端正な抒情詩といった表現がふさわしいといえるかもしれない。そんなところから、陸游には長い古詩が少ない。また律詩が最も多いのは、それが抒情と形式との統一が最も強く現れることと、関係があるのだろう。

また、最晩年になると、日記代わりに詩を作っていたということもあって、身辺のことがらをよく観察した、リアリスティックな作品が多くなる。リアリスティックでありながら、なおその中に抒情が漂うという風なのである。

このサイトは、陶淵明に始まって、李白、杜甫、蘇軾という具合に、中国の偉大な詩人たちの詩を、筆者なりの視点で読み解きながら、陸游にたどり着いた。その陸游の詩の中から、自分の琴線を刺激したものを取り上げて、自分なりの視点から読み解いてみたいと思う。






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