漢詩と中国文化 |
HOME|ブログ本館|東京を描く|水彩画|陶淵明|英文学|仏文学|西洋哲学 | 万葉集|プロフィール|BSS |
和范待制秋興其一:陸游を読む |
陸游と范成大はかつて編類聖政所において同僚として勤務していた間柄であった。五年前の乾道六年《1170》には、夔州に赴任する陸游と、金への使いに赴く范成大とが、鎮江の近くの金山寺で会っている。その後、范成大のほうは順調に出世して、いまや四川省をはじめとする西部方面の軍の最高司令官になった一方、陸游はその部下として仕える身になったわけである。 この関係はわずか一年程で終り、陸游の方から辞職を申し出たということになっている。どういう事情でそうなったのかについては、様々な憶測がなされてきた。その中には二人の不和をいうものもあるが、辞任後も二人が親しくつきあっていること、また范成大が陸游の生活を慮って年金を貰えるように取り計らっていることなどから、不和が原因とは考えがたい。 范成大が陸游を招いたのは、政治に関して意見を聞くというよりは、親しき友人として何かと心の支えになってくれることを期待してのことだったと思われる。ところが陸游の方では、単なる相談相手としてではなく、政治に参加することを強く願ったフシがある。政治とは、金を打倒して宋を復興しようとする、陸游の宿念にかかわることだった。 しかし、当時の情勢は、金との対戦を云々できるような状況ではなかった。王炎が体よく職を説かれたことにうかがえるように、金との和戦が主流意見だったのである。そういう状況の中で、陸游は金との対戦を強硬に主張した。それが范成大を微妙な立場に追いやったのではないか。だから、陸游が辞職したのは、范成大を困らせることをやめるために身を引くという決心からのことではなかったか。そんなように推測されるのである。 この頃、陸游は自らを放翁と号した。放翁とは何でも勝手なことをいってはばからない放縦な翁という意味である。范成大の幕府における自分の立場を自ら皮肉ったのだろう。 「和范待制秋興三首」は、放翁と号した直後に書かれた作品である。 范待制に和す、秋興三首 其一(壺齋散人注) 策策桐飄已半空 策策として桐は飄り 已に半ば空し 啼螿漸覚近房櫳 啼螿 漸く覚ゆ 房櫳に近きを 一生不作牛衣泣 一生作さず 牛衣の泣くを 万事従渠馬耳風 万事 渠の馬耳の風に従はん 名姓已甘黄紙外 名姓 已に黄紙の外なるに甘んじ 光陰全付緑尊中 光陰 全て緑尊の中に付す 門前剥啄誰相覓 門前の剥啄 誰か相覓む 賀我今年号放翁 賀す 我の今年放翁と号せるを 桐の葉が音を立てて風に翻り半ば散りかけている、ひぐらしがようやく窓辺に鳴く季節になった、一生布団の中でめそめそするような真似はしまい、万事馬耳東風という具合でありたいものだ(策策:木の葉が立てる音、啼螿:ていしょう、ひぐらしのこと、房櫳:ぼうろう、部屋の窓、牛衣泣:漢書に出てくる故事、王章がまだ書生の時牛の衣にくるまって妻と共に泣いたという話) 名声をあげられないことは気にすまい、これからの時間は酒を飲んで過ごすことにしよう、門を叩いている音が聞こえるが誰が来たのだろう、自分が今年放翁と号したのを祝福しに来たようだ(黄紙:辞令に使う紙、緑尊:酒の入った樽、剥啄:コツコツという音) |
HOME|陸游|次へ |
作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2009-2013 このサイトは、作者のブログ「壺齋閑話」の一部を編集したものである |