漢詩と中国文化 |
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彭衙行 杜甫 |
杜甫が奉先県に家族を迎えに行った天宝14年(755)の11月には、安碌山の乱が始まった。安碌山は范陽(北京)で兵を挙げるや、怒涛の勢いで長安に攻め上る。その数20万、長安の陥落は時間の問題だとされた。その知らせを奉先県で聞いた杜甫は、家族とともに長安に戻るという計画を捨て、安全を求めて、家族をさらに北方へと避難させることにした。 目指すのは奉先の北100キロのところにある?州。杜甫はこの道のりを、家族を連れて杜甫で歩いた。 時に天宝15年の6月、彭衙を経由して北に向かう道は、折からの雨のために泥濘となって、一家は足をとられながら、困難な旅を続けなければならなかった。 この時の旅の様子を、杜甫は翌年の天宝16年に、回想というかたちで描いている。「彭衙行」がそれである。 杜甫の五言古詩「彭衙行」(壺齋散人注) 憶昔避賊初 憶ふ昔 賊を避けし初め 北走經險艱 北に走って險艱を經たり 夜深彭衙道 夜は深し彭衙の道 月照白水山 月は照らす白水山 思い出すのは昨年のこと、賊を避けて北に逃げた際に艱難を蒙った、彭衙の道は夜深く、月が白水山を照らしていた 昔とは1年前を回想してのこと、賊とは安碌山をさす。杜甫は一家をつれて北へと逃れ、その途中で険難をこうむったと書き出す。 盡室久徒歩 室を盡して久しく徒歩す 逢人多厚顏 逢ふ人厚顏多し 參差谷鳥吟 參差として谷鳥吟じ 不見游子還 游子の還るを見ず 痴女饑咬我 痴女饑えて我を咬み 啼畏虎狼聞 啼いて畏る虎狼に聞ゆるを 懐中掩其口 懐中に其の口を掩げば 反側聲愈嗔 反側して聲愈(いよいよ)嗔る 小儿強解事 小儿強いて事を解し 故索苦李餐 故に苦李を索めて餐ふ 一家そろって長い旅路を歩き、途中出会った人は厚顏のものが多かった、谷間には鳥があちこちに飛んでいたが、旅人のことなど気にもかけない様子にみえた 痴女は腹をすかせて父親のわたしを咬み、その泣き声が狼に聞かれはしまいかと恐れた、懐に抱きかかえて口をふさぐと、体をそらせてますます大きな泣き声をたてた、息子は自分らの境遇を理解しようとしながら、苦いすももを取って口に含んだ 一旬半雷雨 一旬のうち半は雷雨 泥寧相牽攀 泥寧相ひ牽攀す 既無御雨備 既に雨を御ぐの備無し 徑滑衣又寒 徑滑り衣又寒し 有時經契闊 時有って契闊を經る 竟日數里間 竟日 數里の間 野果充食糧 野果を食糧に充て 卑枝成屋椽 卑枝を屋椽と成す 早行石上水 早くには石上の水を行き 暮宿天邊煙 暮には天邊の煙に宿る 十日のうち半分は雨が降り、道は泥濘と化す、雨をしのぐ道具もなく、道は滑って、濡れた衣が肌寒い 時折は難関にさしかかり、一日中歩いても進むことわずかに数里、野果をとって食事の代わりにし、落葉した木陰に体を休め、朝には川の石を渡り、夕べにはもやの中で野宿した ここまで旅の困難が描かれている。道の険しさがありありと描かれ、子供たちの不憫な様子がいきいきと写される。痴女とあるのは長女の宗文、小児とあるのは長男の宗武のことだろう。 少留同家圭 少しく留まる同家圭 欲出蘆子關 出でんと欲す蘆子關 故人有孫宰 故人孫宰有り 高義薄曾云 高義 曾云に薄(せま)る 延客已薫K 客を延くは已に薫Kなるに 張燈開重門 燈を張して重門を開く 暖湯濯我足 湯を暖めて我が足を濯ひ 剪紙招我魂 紙を剪って我が魂を招く 同家?にしばらく滞留し、そこから蘆子關を出て北に向かおうとした、同家?には古い友人孫宰がいて、その親切だったことは雲のように高い志ともいえた 夜中にかかわらず我々を出迎え、灯りをともして門を開けてくれた、湯を温めて足を洗わせてくれ、紙を切ってわれらを正気に戻らせてくれた 旅の途中、杜甫は同家圭というところで孫宰という人にであって、もてなしをうけた。孫宰とはどのような人か明らかではないが、旅をゆく杜甫の家族に暖かい手をさしのべたようである。杜甫はその厚情を感謝を込めて述べている。 從此出妻孥 此より妻孥を出だす 相視涕闌干 相ひ視て涕闌干たり 衆雛爛慢睡 衆雛は爛慢として睡る 喚起沾盤餐 喚び起こして盤餐に沾はしむ 誓將与夫子 誓って將に夫子と 永結為弟昆 永く結んで弟昆と為らん 遂空所坐堂 遂に坐する所の堂を空しくし 安居奉我歡 居に安んじて我が歡びを奉ぜん 誰肯艱難際 誰か肯て艱難の際 豁達露心肝 豁達 心肝を露さん 自分は妻子をさし招くと、妻と見詰め合って安堵の涙を流した、子供たちはすやすやと眠り込んでいたが、起こして食事をさせてやった あなたの親切は忘れない、長くあい結んで兄弟同様の交わりをしたいと思う、するとあなたは自分のいた部屋を空にして、わたしたちをそこにくつろがせてくれた、誰がこんな困難の際に、かくも寛大な心情を発揮できるだろうか 別來歳月周 別來 歳月周る 胡羯仍構患 胡羯仍(な)ほ患を構(かま)ふ 何時有翅羽 何れの時か翅羽有って 飛去墮爾前 飛び去って爾が前に墮ちん 別れて以来年月は過ぎたが、安碌山の乱はまだ収まらずにいる、いつの日か必ず羽を得て、あなたのところに飛んでいき、礼を述べたいと思う 歳月周るとは一年がたったということだろう。安碌山の乱がいまもなおやまない中で、あの時に受けた恩は忘れられない。もしこの乱を生きながらえることができたなら、いつか翼を得て鳥となり、あなたの前に飛んでいって感謝の気持ちを伝えたい、こういって杜甫は一遍を閉じるのだ。 なお杜甫は、?州についた後、家族を?村というところに寄寓させ、自分は単身霊武へと向かった。安碌山によって長安を追われた玄宗は退位して位を子の粛宗に譲っていたが、粛宗は長安北西の霊武に行在所を置いていた。杜甫はとりあえず粛宗のもとに駆けつけることによって、官吏としての責任を果たそうとしたのだった。 だが杜甫は、霊武にいたる途中安碌山軍に捕らえられ、長安へと転送されてしまうのである。 |
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作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2009 このサイトは、作者のブログ「壺齋閑話」の一部を編集したものである |