漢詩と中国文化
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澄邁驛通潮閣:蘇軾を読む


元符三年(1100)正月、哲宗が死んだ。哲宗の後は弟の徽宗が継ぐことになるが、権力交代の半年ばかりの移行期の間、徽宗の母向氏が摂政として統治した。この期間は、蘇軾ら旧法党のメンバーにとって、わずかな間ながらも、幸運な時期になった。というのも、向氏は章敦ら新法等の指導者のやり方を日頃から憎んでいて、摂政になるや否や、彼らを追放してしまったからである。

五月になると、海南島の蘇軾のところに、あの呉復古がまた姿を現し、蘇軾が赦免されて、雷州半島の西にある廉州に移されるという最初の知らせを持ってきた。

そこで蘇軾は、末子の過、呉復古、飼犬の烏觜を連れて澹州を出発し、船で雷州に渡ろうとした。その時に、対岸を眺めながら作った詩が残っている。


澄邁驛の通潮閣

  餘生欲老海南村  余生 老いんと欲す 海南の村
  帝遣巫陽招我魂  帝 巫陽をして 我が魂を招かしむ
  杳杳天低鶻沒處  杳杳として天低れ 鶻の沒する処
  青山一髮是中原  青山 一髮 是れ中原

余生を海南の村で終えようと思っていたところ、皇帝が巫陽を遣わして我が魂をお招きになった、遥か彼方天空が低く垂れて隼が没するあたり、青山が一筋の髪の毛にように見えるところ、そここそが中原だ


巫陽は「楚辞」に登場する巫女の名前。天帝は巫陽に、屈原のさまよえる魂を連れ戻すように命じたとされる。中原とは本来都のあるあたりを指していうが、ここでは中国本土を指して言っている。






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