漢詩と中国文化
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聚星堂雪(並敘):蘇軾を読む


元祐六年(1091)都に召された蘇軾は政敵からの攻撃が煩わしくなり、地方転出を強く願い出た結果、その年のうちに頴州の知事となって転出することができた。

頴州はかつて欧陽脩が知事をつとめたところ、欧陽脩は自分のたてた建物に聚星堂と名付けたが、それは徳のある人物が集まるところと云う意味である。蘇軾は仲間とともにその建物をおとずれて宴会を催し、客に一片づつ詩を作ることを求めた。

元祐六年十一月一日,禱雨張龍公,得小雪,與客會飲聚星堂。忽憶歐陽文忠作守時,雪中約客賦詩,禁體物語,于艱難中特出奇麗,爾來四十餘年莫有繼者。仆以老門生繼公後,雖不足追配先生,而賓客之美殆不減當時,公之二子又適在郡,故輒舉前令,各賦一篇,以為汝南故事雲。

元祐六年十一月一日,雨を張龍公に禱って,小雪を得たり,客と聚星堂に會飲す。忽にして憶ふ、歐陽文忠の守たりし時,雪中に客と約して詩を賦し,體物の語を禁じ,艱難の中に特に奇麗を出したることを。爾來四十餘年繼ぐ者の有ること莫し。僕老門生を以て公の後を繼ぐ,先生に追配するに不足と雖も,而も賓客の美は殆ど當時に減ぜず。公の二子は又適ま郡に在り,故に輒て前令を舉げて,各一篇を賦せしむ。


元祐六年十一月一日、自分は張龍公(竜神)にお祈りをささげて小雪を降らせてもらった。そのお祝いに聚星堂で宴会を催した。すると、昔欧陽脩先生がこの地の知事であらせられた時になさったことを思い出した。先生はやはり雪の中宴会を催して詩を作らせたが、その際常套句を用いることを禁じたところ、かえって困難の中から素晴らしい詩ができあがった。それ以来40年たつが、先生の志を継ぐ者がいない。自分はもう老人ではあるが、先生の後輩である、先生にはとても及ばないが、居並ぶ客たちは当時の客に劣らず優れた人々である、おまけに先生の子息も二人加わっておられる、それ故先生と同じ条件を付して、皆さんに一片づつ詩を作ってもらうことにした次第である。






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