漢詩と中国文化
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哀王孫 杜甫



安碌山は天宝14年?755?の11月に兵を挙げると、破竹の勢いで南下し、一ケ月ほどで洛陽を攻略した。そして翌年の正月に、自ら雄武皇帝と称し、国号を大燕とする新王朝を宣言した。燕は安碌山の拠点、河北地方の別称である。

唐王朝は大軍を派遣して、長安防衛の最後の拠点、函谷関と潼関を守らせたが、あえなく突破され。長安は風前の灯となった。ここに玄宗は長安を捨てて脱出し、蜀(四川)に逃げ延びる。その行軍のさなかに、楊貴妃は兵士たちによって糾弾され、玄宗もその勢いに押されて、見殺しにせざるを得なかった。

一方玄宗の太子李享は、父親に譲位を迫って自ら皇帝となり、粛宗を名乗って霊武に行在所を設け、天保15年の7月に至徳と改元した。

函谷関と潼関を破った安碌山の軍は、長安に入城したが、大規模な略奪を働いたために人民の強固な抵抗に直面し、また政治もうまく機能しない状態だった。そのため子の安慶緒が反旗を翻して、父親を殺すという事態に発展した。至徳2年正月のことである。

その頃の杜甫は、城内に監禁されているといっても、町を歩き回るくらいの自由はあったようだ。監禁されている間にも、胡軍占領下の長安の様子をいくつかの詩に描いている。

ここに取り上げる「哀王孫」は、至徳元年の秋に書かれたと思われる。玄宗が長安を脱出したとき、王族の多くは何も知らされずに取り残された。彼らは略奪を受けたり、命をとられたり、散々な艱難をなめたに違いない。そんな王族の一人と、杜甫は偶然長安の路上で出会ったのである。

杜甫の七言古詩「哀王孫」(壺齋散人注)

  長安城頭頭白烏  長安城頭 頭白の烏
  夜飛延秋門上呼  夜 延秋門上を飛んで呼ぶ
  又向人家啄大屋  又人家に向って大屋を啄む
  屋底達官走避胡  屋底の達官 走って胡を避く
  金鞭斷折九馬死  金鞭斷折して九馬死し
  骨肉不得同馳驅  骨肉 同じく馳驅するを得ず
  腰下寶訣青珊瑚  腰下の寶訣 青珊瑚
  可憐王孫泣路隅  憐れむべし 王孫の路隅に泣くを

長安城頭には頭白の烏が、夜延秋門の上を飛びながら鳴き、人家に巣くっては屋根の下で獲物をついばむ、その家の主人は胡を避けて逃げ出したのだ

金鞭は折れて九馬は死んだ、骨肉も一緒に逃げることがかなわぬ、そこに腰に寶?と青珊瑚をつけた貴人がひとり、道端で泣いているのが見えた

  問之不肯道姓名  之に問へども肯て姓名を道(い)はず
  但道困苦乞為奴  但だ道ふ 困苦して奴と為ることを乞ふ
  已經百日竄荊棘  已經(すで)に百日荊棘に竄せられ
  身上無有完肌膚  身上完き肌膚有る無しと
  高帝子孫盡隆準  高帝の子孫盡く隆準
  龍種自與常人殊  龍種は自づから常人と殊なれり
  豺狼在邑龍在野  豺狼は邑に在り 龍は野に在り
  王孫善保千金躯  王孫善く千金の躯を保てよ

問いかけても姓名をいわず、ただ困苦したゆえあなたの奴にして欲しいという、すでに百日もの間荊棘の陰にかくれ、体中傷のないところはないと

高帝の子孫はみな先祖に似て鼻が高い、龍種は自づから常人とは異なって見える、豺狼は邑に龍は野にひそんで獲物を狙っている、どうぞその体を大事になさい

  不敢長語臨交衢  敢て長語して交衢に臨まざれど
  且為王孫立斯須  且く王孫の為に立つこと斯須なり
  昨夜春風吹血腥  昨夜の春風血を吹いて腥し
  東來賊駝滿舊都  東來の賊駝 舊都に滿つ
  朔方健兒好身手  朔方の健兒は好身手
  昔何勇鋭今何愚  昔は何ぞ勇鋭にして今は何ぞ愚なる
  竊聞天子已傳位  竊かに聞く 天子已に位を傳へ
  聖コ北服南單於  聖コ 北のかた南單於を服せしむと
  花門裂面請雪恥  花門面を裂いて雪恥せんと請ふ
  慎勿出口他人狙  慎んで口より出だすこと勿れ 他人狙はん
  哀哉王孫慎勿疏  哀しい哉 王孫 慎んで疏なる勿れ
  五陵佳氣無時無  五陵の佳氣 時無きこと無からん

普通なら路上で長話などしない私だが、しばらくあなたのために立ち止まって話をしましょう、昨夜の春風が血なまぐさく、東からやってきた賊どもが都の中に充満している

朔方の健兒といわれたわが兵士は、昔はあれほど勇猛果敢だったのに、今ではなんという愚か振りだ、ひそかに聞くところによれば玄宗皇帝は位を粛宗に譲ったとのこと、その粛宗は北にいて南單於を服属させたとのことです

南單於は面を裂いて誓い、雪辱をしたいといっているそうです、ですが他言は無用、胡に狙われますから、悲しいかな王孫のあなた、やけにならないでください、唐王朝の威光も回復されないとは限りませんから


頭白の烏は、古来中国では不吉の象徴とされた。その烏が夜中に飛んでいる延秋門とは、玄宗が命からがら脱出したところである。その脱出に取り残された王孫が、いまや路上でおびえている。そんな王孫に杜甫は声をかける。

王孫は王孫として命を狙われるよりは、あなたの奴となって安穏に暮らしたいと訴える。すると杜甫は王孫を励ますように言う。「竊かに聞く 天子已に位を傳へ、聖コ北のかた南單於を服せしむと」

実際粛宗は南單於(ウィグル)と手を結び、起死回生を図っていた。そのことを杜甫は誰かから伝え聞いて知っていたのだろう。






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