漢詩と中国文化
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離騷:楚辞・屈原の歌



離騷は屈原の代表作である。題意についてはいくつかの解釈があるが、史記は「離憂の如きなり」としている。すなわち「憂いにかかる」という意味である。詩の内容から推して、この解釈がもっとも自然といえる。

書かれた時期については、屈原が最初に放逐された30歳頃とするものと、2度目の追放をこうむった60歳頃とするものとがある。これも史記に従って、最初の放逐の際のものとするのが、自然なようである。

史記はまた離騷一篇を次のように解題している。「屈平王聴の聡ならず、讒謗の明を覆ひ、邪曲の公を害し、方正の容れられざるを疾むなり、故に憂愁幽思して離騷を作る。」

この解題にあるとおり、離騷は志を得ずに人の讒謗にあい、放浪の旅に出ざるを得なかった自らの不運を憂い嘆いて歌ったものだ。しかし晩年の詩が、絶望苦悶の色彩濃厚なのに対し、この詩には、憂いを語りながら絶望に陥らず、浪漫的な色彩をも感じ取れる。

全篇は三百七十三句の長編であるが、ここではその冒頭部分を取り上げたい。


楚辞から屈原の歌「離騷」その一(壺齋散人注)

帝高陽之苗裔兮   帝高陽の苗裔(べうえい)
朕皇考曰伯庸     朕(わが)皇考を伯庸と曰ふ
攝提貞於孟陬兮   攝提(せってい)孟陬(すう)に貞(ただ)しく
惟庚寅吾以降     惟(こ)れ庚寅に吾以て降(くだ)れり

高要帝の末裔たる我が父は、名を伯庸といった。寅年の初春の寅の月、それも庚寅の日に私は生まれたのだ(攝提:寅年、木星が寅の方位にあることを攝提挌といった、孟陬:孟は初め、陬は正月、古代中国では、正月を寅の月に定めた)

皇覽揆餘初度兮   皇覽(み)て餘を初度に揆(はか)り
肇錫餘以嘉名     肇めて餘に錫(たま)ふに嘉名を以てす
名餘曰正則兮     餘を名づけて正則と曰ひ
字餘曰靈均      餘を字(あざな)して靈均と曰ふ

父君は私の生まれつきを推し量って、私によい名をつけてくれた、名を正則といい、字を靈均という(初度:生まれたばかりの器)

紛吾既有此内美兮  紛として吾既に此の内美有り
又重之以脩能     又之に重ぬるに脩能(しうたい)を以てす
扈江離與闢止兮    江離と闢止(へきし)とを扈(かうむ)り
繋秋蘭以為佩     秋蘭を繋(つな)いて以て佩と為す

私は名にふさわしく旺盛で、美質を多く持ち、さらに優れた才能を持っていた、江離と闢止の草を身につけ、秋蘭をつないで帯にした(脩能:優れた能力)

泊餘若將不及兮   泊として餘將に及ばざらんとするが若くし
恐年歳之不吾與   年歳の吾とともにせざるを恐る
朝搴此之木蘭兮   朝には此の木蘭を搴(と)り兮
夕攬洲之宿莽     夕には洲の宿莽を攬(と)る

月日は早く過ぎてなかなか追いつかず、自分がそれに及ばないことを恐れた、朝には丘の上の木蘭をとり、夕には州に生えている草をとった(此は山へんをつけて丘に意になる、)

日月忽其不淹兮   日月は忽として其れ淹(とどま)らず
春與秋其代序     春と秋と其れ代序す
惟草木之零落兮   草木の落零を惟(おも)ひ
恐美人之遲暮     美人の遲暮を恐る

月日は早く過ぎ去って一刻もとどまらず、春と夏とがこもごも入れ替わる、草木が落零するのを見ると、壮年のわたしもすぐ晩年を迎えるのではないかと恐れる(美人:壮年、ここでは屈原自身をさす、遲暮:晩年)

不撫壯而棄穢兮   壯を撫して穢を棄てず
何不改此度      何ぞ此の度を改めざるや
乘騏驥以馳騁兮   騏驥に乘りて以て馳騁(ちてい)し
來吾道夫先路     來れ吾夫(そ)の先路を道びかん

壮者を慰撫して悪人を捨てるべきなのに、王は反対のことをして改めようとしない、王が駿馬にのって馳せまわられるならば、自分こそその先導役を勤めようものを

昔三后之純粹兮   昔三后の純粹なる
固衆芳之所在     固(まこと)に衆芳の在る所
雜申椒與菌桂兮   申椒と菌桂とを雜(まじ)ふ
豈維繋夫寰     豈に維(ただ)夫の寰(けいし)を繋(つな)ぐのみならんや

昔、三后のような純粋な君主たちは、もろもろの香ばしいものを身に着けたものだ、その中には山椒もあれば菌桂もあった、?をつないで帯にするばかりが能ではない(三后:神話上の君主、菌桂:香木の類、)

彼堯舜之耿介兮   彼の堯舜の耿介なる
既遵道而得路     既に道に遵ひて路を得たり
何桀紂之猖披兮   何ぞ桀紂の猖披なる
夫唯捷徑以窘歩   夫れ唯捷徑を以て窘歩(きんぽ)せり

あの堯舜が公明正大であったのは、道に従って政を行ったからだ、桀紂が放縦に流されたのは、わき道を急いだからだ(捷徑:わき道を早く行く、窘歩:急いで行く)

惟夫黨人之愉樂兮  惟(ただ)夫れ黨人の愉樂する
路幽昧以險隘     路幽昧にして以て險隘(けんあい)なり 
豈餘身之憚殃兮    豈に餘が身之れ殃(とが)を憚らん
恐皇輿之敗績     皇輿の敗績を恐るるなり

思うに、君側の悪党たちが逸楽をむさぼり、その導く道は幽昧で險隘だ、どうして彼らに憎まれるのをはばかることがあろうか、王の車が覆るのを心配するばかりなのだ(黨人:党派を組むものたち、悪党、皇輿:君主の乗り物、敗績:車がつくがえること)

忽奔走以先後兮    忽ち奔走して以て先後し
及前王之踵武      前王の踵武に及ばんとす
全不察餘之中情兮  全(せん)餘の中情を察せず
反信讒而斉怒     反って讒を信じて斉怒す

私はすぐさま奔走して王の車に従い、ご先祖たちの偉業に及んでもらいたいと思った、しかるに王はそんな私の心情を理解せず、かえって悪党の讒言を信じて激怒された(?:人称代名詞、ここでは王をさす)

餘固知謇謇之為患兮 餘固より謇謇(けんけん)の患を為すを知るも
忍而不能舍也      忍びて舍(や)む能はず
指九天以為正兮    九天を指して以て正と為す
夫唯靈脩之故也    夫れ唯靈脩の故なり

私は無論、諫言が身の患いとなることは知っていたが、やむにやまれずそうしたのだ、九天も照覧あれ、これはただ王を慮ってしたことなのだ(謇謇:諌める言葉、諌言、靈脩:王)

曰黄昏以為期兮    黄昏を以て期と為さんと曰ひ
羌中道而改路      羌(ああ)中道にして路を改む
初既與餘成言兮    初めに既に餘と言を成ししも
後悔遁而有他     後悔遁(のが)れて他有り
餘既不難夫離別兮  餘既に夫の離別を難(はばか)らず
傷靈脩之數化     靈脩の數(しばしば)化はるを傷(いた)む

王は黄昏に来るといっておられながら、途中で心変わりをなされた、はじめには私と約束しておきながら、後で言を翻される、私はそんな王に見捨てられることをはばかりはしないが、王がしばしば豹変されることを、王のために悲しむのだ






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