漢詩と中国文化
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秋瑾伝を読む:山崎厚子著「秋瑾 火焔の女」


ノンフィクション作家山崎厚子さんの秋瑾伝「秋瑾 火焔の女」を読んだ。中国清朝末の女性革命家として知られる秋瑾は、日本ではあまり紹介されることがなく、竹田泰淳の書いた「秋風秋雨人を愁殺す」などによって、わずかに彼女の生涯の輪郭を知りうる程度だったので、山崎さんのこの本は、日本人が秋瑾を知る上での貴重な手がかりを増やすことになろう。

学問的体裁のいわゆる研究書ではなく、ノンフィクション小説の体裁なので、事実の裏付けなど厳密性には欠けるかもしれないが、その分、読み物としては面白いので一気に読める。竹田泰淳の本とは、細部において一致しない点もあるが、秋瑾の生涯について、一応満遍なくカバーしているようである。またところどころ秋瑾の作った漢詩の紹介などもしているので、秋瑾の詩人としての側面も窺えるようになっている。

そこで、この本を材料にして、秋瑾の満31年という短い生涯を振り返ってみたい。なお、竹田泰淳の本に基づいて筆者が書いた簡単な秋瑾伝は、別稿「秋風秋雨人を愁殺す:秋瑾女史秋風曲」を参照されたい。

秋瑾は光緒元(1875)年に福建省の厦門で生まれた。祖父の秋嘉禾が厦門の知府(市長)をしており、嘉禾の息子で秋瑾の父にあたる秋寿南ともども厦門の町で暮らしていたのだった。当時の厦門は西洋に開かれた港として、多くの西洋人が跋扈し、中国人は小さくなって暮らしているばかりか、アヘン、賭博、買春が横行し、市長たる秋嘉禾はその取締りに頭を痛めたが、ほとんど何もすることが出来なかった。そんな厦門で秋瑾は12歳まで育った。

秋瑾の幼名は秋槿といい、通称を玉姑(ユーグ)といった。玉姑は名前と言うよりも、女の子に対する呼びかけの言葉である。秋瑾は小さい時から活発で、まるで男の子のようだったという。実際男の子に交じって遊んだり、兄の授業に付き添って勉強にも励んだりした。

秋瑾12歳の時に、父の秋寿南が台湾に転勤になった。その機会に、母の単子が里帰りを許され、娘の秋瑾を伴って実家に戻った。実家は紹興と杭州の間にある蕭山にあり、母の実家は代々この地の郷紳であった。それに対して父方の秋一族は紹興を本籍地としていた。ともあれ秋瑾はこの蕭山で19歳までの多感な時代を過ごし、その間母親の甥で進歩的な意見の持ち主だった単以南の薫陶を受けた。馬術、剣術を学ぶ傍ら、学問や詩作にも精を出し、男に劣らぬ教養を身に着けたのである。

秋瑾19歳の時に、父が湖南省へ転勤となった。秋瑾は一緒に湖南省に行くのがいやだったが、当時の風習として、結婚適齢期の女子は親と一緒にいることとされていたので、しぶしぶ従った。そして湖南省にいって間もなく縁談が舞い込んできた。相手は王家といって湖南省随一の富豪だった。この話に父親はすっかり乗り気になったが、秋瑾は自分で結婚相手を決めると言って抵抗した。しかし、結婚相手の叔父がかの曽国藩だと知って、俄然心変わりをした。曽国藩は中國きっての文人政治家であり、洋務派の前総督として尊敬を集めていた。そんな人の甥なら、きっと学問もよくできて、立派な人間に違いない、そう思ったのだ。

こんなわけで、秋瑾は20歳で輿入れした。夫の王廷釣は2歳年下で、期待に反して学問には興味がなかった。しかし子作りには長けていて、結婚した年の中秋の名月の夜、妻に子供を授けた。この夜に孕まれた子は男子だと硬く信じられていたのであるが、果して秋瑾は男子を生むこととなった。王家では、跡取りの王廷釣が学問嫌いで出世する見込みがないので、この子に将来への期待が集まった。

男子を生んだご褒美として、秋瑾は舅から北京での生活を許された。舅はわざわざ息子に北京の官職を買い与え、北京での生活に箔をつけてやった。秋瑾23歳のときである。

彼女らがやってきた頃の北京は、戊戌の政変の余韻がまだ漂っている頃だった。また1899年(24歳のとき)には義和団事件が起きたりして治安も悪かった。そこで二人目の子を身ごもった秋瑾は、一時湖南省に戻って出産した。上の男子は実家に預けて養育していたが、下の女子はずっと秋瑾自ら育てることとなる。

再び北京に戻った秋瑾は、活発に活動して視野を広げていった。そして満州人による支配をやめさせて漢民族による自治を獲得したり、女性の地位を向上させたりすることを目指すようになる。彼女は視野を広げる手段としてアメリカへの留学を目指していたが、日本人と付き合うようになって、日本への留学を決意するようになる。彼女に影響を与えたのは、清朝政府に招かれて北京にやってきた日本人学者服部宇之吉の妻繁子であった。繁子から日本における女子教育のレベルの高さを知らされた秋瑾は、日本に留学して女子教育のノウハウを獲得しようと思ったのである。

日本留学希望には夫の王廷釣が大反対した。アメリカなら許してやってもよいが、日本は清朝打倒を目指す革命分子の巣窟だ、そんなところにやるわけにはいかないというのだ。そこで秋瑾は自分の装飾品を売って金を作り、夫の反対を押し切って日本に行くことにした。この時点で離婚したという説もあるが、この本の中では、正式に離婚したことにはなっていない。ともあれ、秋瑾は娘を実家に預けて日本行きを決行した。1904年秋のことである。時に秋瑾29歳であった。

日本につくと、下田歌子の経営する実践女学校に中途入学し、渋谷の寮に入った。彼女が和服姿で映っている有名な写真は、この実践女学校の制服を着ているのである。しかし、この女学校のレベルは期待していたほどではなかった。そこで秋瑾は、東京の中国人社会と付き合うようになり、次第に革命思想にかぶれていった。彼女は弁舌のうまさを買われて、しばしば中国人たちを前に演説をするのだったが、それは男女同権説であったり、中国の近代化の必要性を訴えるものであったり、勇ましい内容のものだった。時折自分の思想を批判する男がいると、その男を卑怯者と言って罵った。彼女に罵られた男の一人に胡道南という者があったが、この男はそれ以来彼女に深い恨みを抱くようになり、ついには彼女を破滅させる役柄を演じるに至る。

資金がなくなって一旦中国へ戻り、再び来日して活動を続けるうちに、次第に革命思想を強めるようになった彼女は、いまや女学校で勉強している場合ではない、中国に戻って革命運動に邁進し、清朝を倒さねばならない、と強く思うようになる。

1905年の暮に中国へ舞い戻った秋瑾は、革命に向けて準備を始めるようになった。革命には当然資金がいるということで、彼女は婚家の舅を騙して資金を獲得した。舅には、女子教育の拠点として学校を作りたいから、そのための資金を出してほしいと頼んだのであるが、実際には革命戦士を養成するための学校を作ったのだった。

秋瑾は大通師範学校と名づけられたその学校の主任(校長)となって、自ら革命戦士の養成にあたるかたわら、爆弾や武器の調達を進めた。こうして、次第に準備を整えながら、革命のための蜂起の計画を練った。

その計画というのは、安徽省と浙江省とで同時に軍事蜂起し、それを呼び声に、中国全土での革命蜂起を誘導しようというものだった。安徽省の蜂起は徐錫麟が指導する、浙江省の蜂起は秋瑾が指導するという内容だった。蜂起のきっかけは、徐錫麟が経営する師範学校の卒業式に満州人の幹部を招待し、彼らを爆殺する、またそれと並行して秋瑾の師範学校の卒業式でも満州人の爆殺を決行し、この同時蜂起で革命を誘発しようというものだった。

だが、この計画は事前にばれてしまった。秋瑾に深い恨みを抱いていた胡道南が紹興の巡警となっており、彼女の動向をいろいろと偵察していたのだ。ついに彼女らの陰謀を掴んだ胡は、治安当局に訴え出て、彼女らの弾圧に向かわせたのであった。(胡道南は後に秋瑾の同志たちによって殺された)

最初に弾圧されたのは徐錫麟の方だった。彼の死を知った秋瑾は、もはやこれまでと観念して、自分から縄にかかった。徐錫麟はさんざん叩きのめされた上に心臓をえぐり取られ、肉は切り刻まれ、首が処刑場にさらされたが、秋瑾は斬首されたうえで、遺骸はそのまま遺族に引き渡された。秋瑾が親しくしていた王端之が彼女の名誉のために駆けずりまわってくれた結果だった。王端之は清朝の王族の一員であるにかかわらず、何故か秋瑾と気が合ったのである。

秋瑾が満年齢31歳の若さで散ったのは1907年、辛亥革命が起きるのはその四年後の1911年のことである。これを成功に導いた武昌蜂起には、彼女が師範学校で鍛えた多くの若者たちが加わっていた。だから彼女の死は、辛亥革命の礎の一つになったともいえる。決して無駄には終わらなかったのである。

杭州西湖の畔には彼女の顕彰碑が立っている。そこには孫文の揮毫により、「鑑湖巾幗秋瑾女士」と記されている。女史ではなく女士というところが、いかにも秋瑾に相応しい。

ここでは、そんな秋瑾の生きざまに思いを馳せながら、彼女の詩詞のいくつかを観賞したいと思う。もとより秋瑾は詩人としては一流とは言えず、その詩の殆どは、詩情と言うよりも秋瑾の祖国へのたぎる思いを歌ったものであるが、それなりに人をして感動せしむるものがある。






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