漢詩と中国文化
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野次馬根性:魯迅「引き回し」


魯迅の短編小説「引き回し」は、中国の民衆のもつ野次馬根性を正面から描いたものだ。中国人の野次馬根性を魯迅は、あの有名な幻燈事件のさいに、いやというほど思い知ったのであったが、そのときに感じたであろういやな思いを、この小説の中で吐き出した。そんなふうに思わせる一篇である。

舞台は、首都の西城の大通り。それに面した店で、十二、三歳の太った男の子が饅頭を売る声を張り上げているが、突然、通りの向う側に跳んでいく。そこには二人の男が立っていた。ひとりはサーベルを提げた巡査で、もうひとりは犯人らしい。巡査と犯人とは一本の縄でつながれていた。それを目ざとく見つけた男の子が、野次馬根性を起こして突進していったということなのだ。

すると、男の子の外に様々な人が集まってきて、二人の周りにはたちまち大きな人垣ができる。禿げ頭の老人、半裸の肥大漢、子どもを抱いた女、ボールのような小学生、労働者風の身なりの悪い男、コーモリ傘を小脇にした男、その他大勢が、二人を囲んでひしめき合い、こづきあいながら、二人を見つめている。だが、見つめて何をしようと云うのでもない。ただ見つめることが彼らの目的なのだ。

どれくらいの時間が経ったのか、よくわからないままに、野次馬たちの群は突然解散する。ほかに注意をひく光景があらわれて、彼らの関心は一瞬そちらに向く。一旦他を向いた関心は、もはや元のところに戻ってくることはないのだ。

こうして、あれほどひしめきあい、うごめきあっていた野次馬の群は、何事もなかったかのように解散し、その野次馬に加わった一人一人、たとえば饅頭売りの太った少年なども、何ごともなかったかのように、饅頭を売る声を張り上げるのである。

これらの野次馬は、幻燈の場面で出て来たあの野次馬たちによく似ている、と魯迅はいいたいのだろう。あの野次馬たちは、日本人によって殺されようとしている同胞の姿を見に集まってきたのであるが、彼らの表情には、同胞に対する同情も、日本人に対する怒りもない、ただ珍しい者を見物したいという、それこそ野次馬根性だけが透けて見える。そう魯迅は受け取ったのであろう。

こうした野次馬根性は、たとえば日本人にもあるだろうか。そう反省してみると、ないわけでもないようだ、との感じもする。しかし日本人なら、こんなにも夢中になって、巡査と引き立てられる囚人の有様を見物することはないようにも思われる。日本人の野次馬がそれこそ夢中になるのは、火事とか殺し合いの喧嘩くらいではないだろうか。






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