漢詩と中国文化
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吶喊:魯迅を読む


魯迅が日本に留学したそもそもの目的は近代医学を学ぶことだったが、彼はその目的を途中で放棄して、文学を志すようになった。何故そうしたのか、その経緯なり理由について、魯迅は処女作品集「吶喊」自序の中で書いている。

魯迅が学んでいた仙台の医学専門学校(現東北大学医学部)では、幻燈を使って講義をすることがあったが、講義の余暇にニュースを映して見せてくれることもあった。当時は日露戦争の最中で、戦争のニュースが多かったが、或る時「私(魯迅)は突然画面の中で、多くの中国人と絶えて久しい面会をした。一人がまん中にしばられており、そのまわりに大勢立っている。どれも屈強な体格だが、表情は薄ぼんやりしている。説明によれば、しばられているのはロシア軍のスパイを働いたやつで、見せしめのために日本軍の手で首を切られようとしているところであり、取り囲んでいるのは、その見せしめのお祭り騒ぎを見物に来た連中とのことであった」(竹内好訳、以下同じ)

この光景に接した魯迅はショックを受け、医学を学ぶことをやめる決意をした。「愚弱な国民は、たとい体格がどんなに健全で、どんなに長生きしようとも、せいぜい無意味な見せしめの材料と、その見物人になるだけではないか」。だから必要なのは医学などではなく、彼らの精神を改造することであり、それに最もふさわしいのは文学なのだ。そう考えて魯迅は、仙台の医学専門学校をやめて、東京へ出て来たというのである。

これが、魯迅研究者の間で有名になった「幻燈事件」である。この事件を魯迅は、短文「藤野先生」の中でも書いているが、そこでは、魯迅が日本人学生によって迫害されたことにも触れており、魯迅が仙台を去ったのは、むしろこの迫害に起因しているのではないかとの憶測もなされている。

ともかく、魯迅が文学を志すうえで最大の動機となったのが、中国の民衆の精神を改造したいとする意思であったことは間違いないところだろう。何故なら魯迅は生涯を通じて、中國民衆の愚弱さとその拠って来る原因とを仮借なく暴きだし、そこからの解放を叫び続けたからである。

中國民衆の愚弱さに向けられる魯迅の目はすさまじい光を放っている。自国の民衆に対してこのように仮借ない視線を向けた文学者は、他に例を見ないほどである。ということは、清朝支配下の中国が、いかに封建的なくびきにあえいでいたか、ということを物語っている。

その少し前に封建的なくびきから脱出し、近代国家の建設に向かって歩み出した日本においては、魯迅のように自国民を罵倒するような文学者はひとりも現れていない。世界中の歴史を繙いても、そのような文学者を見つけ出すのはむつかしいだろう。ゴーゴリをはじめとした19世紀のロシアの文学者も、自国民の愚かさについて批判的であったが、魯迅のように同胞を罵倒するようなことはしなかった。それほど魯迅の罵倒はすさまじいのである。

さて、魯迅が医学を捨てて文学を志したのは1906年、24歳の時であった。だが、魯迅が実際に最初の文学作品「狂人日記」を書くのは1918年、36歳の時である。その間魯迅は役所勤めなどをする傍ら、西洋文学の翻訳や古い拓本の収集などをしていたが、本格的な小説を書くことはなかった。そんな魯迅に、いよいよ小説を書かずにはいられなくなるような出来事があった。そのことについても、魯迅は「吶喊」自序の中で書いている。

ある日古い友人が魯迅を訪ねて来て、発行したばかりの雑誌「新青年」のために小説を書かないかと持ちかけた。「新青年」は、中国の近代化のために民衆を啓蒙することを大きな目的としていた。魯迅にも是非、人々を啓蒙するような文章を書いて欲しいというのである。そこで、魯迅は答えた。

「かりにだね、鉄の部屋があるとするよ。窓はひとつもないし、こわすことも絶対にできんのだ。なかには熟睡している人間が大勢いる。まもなく窒息して、みんな死んでしまうだろう。だが、昏睡状態からそのまま死へ移行するのだから、死ぬ前の悲しみは感じないんだ。いま君が、大声を出して、やや意識のはっきりしている数人のものを起こしたとすると、この不幸な少数のものに、どうせ助かりっこない臨終の苦しみを与えることになるが、それでも君は彼らに済まぬと思わぬかね」

すると友人はこういった。「しかし、数人が起きたとすれば、その鉄の部屋を壊す希望が、絶対にないとは言えんじゃないか」

この言葉を聞いた魯迅は、希望は抹殺できないということを覚って、自分もその希望にかけたというのである。この結果、生まれたのが「狂人日記」。この作品は、中国の民衆の間にはびこっている封建道徳の非人間性を弾劾し、民衆に人間らしい生き方を考えるよう、せまったものだった。その後、魯迅の筆は、迸るかのように次々と作品を生み出していった。そしてそれらを集めて、初めての小説集が編まれた。「吶喊」である。

吶喊とは、突撃の際にあげられる叫び声のことをいうが、自分自身の吶喊について、魯迅は次のように語っている。

「私の吶喊の声が、勇ましいか悲しいか、憎々しいかおかしいか、そんなことは顧みるいとまはないのだ。ただ、吶喊であるからは、主将の命令はきかないわけにはいかなかった」

ここで、「主将の命令」といっているのは、時代の要請という意味であろう。魯迅にとっての時代の要請とは、迷妄な封建道徳を克服して、中国を近代的な社会にすることだったといえよう。

魯迅は、極めて強く社会にコミットする、政治的なタイプの作家なのである。






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