漢詩と中国文化
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中国現代史を微視的に描く:莫言「豊乳肥臀」


小説「豊乳肥臀」は、語り手たる上官金童の誕生から、彼の母親の死に至るまでの、中国現代の歴史を微視的な視点から描いたものだ。金童が生まれたのは、小説の冒頭部分では1935年のことだとアナウンスされるが、その後なし崩し的に訂正されて1939年の卯年生まれだとされる。一方母親が死ぬのは93歳の時だとアナウンスされる。母親は1900年に生れたということになっているから、1993年に死んだわけだ。その母親の若い頃、つまり金童が生まれる前のことも小説は語っているから、この小説全体がカバーしているのは、辛亥革命以前の1900年から改革開放後の1993年までの、中国現代史のほぼ全時代である。その時代の中国をこの小説は、上官金童という語り手の微視的な視点から語っているのである。

小説がカバーしている100年たらずの期間に、中国はじつに目まぐるしく変化し続けた。政治的なレベルだけで見ても、清朝の因襲的な制度が1911年の辛亥革命によって倒され、その後には軍閥が跋扈した時代が続いた。軍閥の時代には、外国が引き続き中国を蹂躙した。そのうち日本人たちがやってきて、かれらを相手に抗日戦争が勃発する。その日本がいなくなると、国共両勢力が内戦状態に陥り、その内戦を共産党が勝ち抜く。しかし共産党の勝利は中国の庶民にとってかならずしもいいことばかりではなかった。1960年前後の大飢饉は共産党の失敗の最たるものだし、その後に続いた文化大革命は、中国人の間に深い心理的な溝を深めた。1970年台末に改革開放政策が始まると、中国は爆発的な近代化に直面するが、その近代化の恩恵を受ける者と、それには無縁な者との格差は拡大した。

以上のような激変を、この小説の語り手たちは身を持って体験するわけだが、その体験を上官金童という一人の小心な人物が、かれの個人的な見聞として、微視的な視点から語るのである。この金童という語り手は、かれの母親が、スウェーデン人神父と交わってできた混血児である。かれには双子の姉がいた。その姉は、逆子で生まれてきたこともあって、生まれつき目が見えなかった。しかし器量はすばらしく、見えない目は独特の輝きを放っていた。その姉は、金童にとっては八番目の姉だったので、かれは彼女を八姐と呼んだ。本来的には玉女という名前があったのである。その八姐を含めた八人の姉たちの生き方が、この小説の表向きのテーマである。金童たちの前には様々な人間たちが現われ、それらの人々はそれぞれに時代の流れに乗っていたわけだが、その流れに流されるようにして、浮き沈みを重ねた。その浮き沈みこそは、中国現代史のあり方そのものであり、したがってその浮き沈みに乗った登場人物たちは、それぞれに中国現代史の一面を体現しているということになる。小説は彼らの行為のもつれ合いという形をとるから、彼らがそれぞれに体現する中国の諸側面がもつれあって、小説が展開するというかたちをとるのである。

小説の本文は抗日戦の描写から始まる。日付の設定にやや混乱があるが、要するに日中戦争の勃発を受けて、小説の舞台たる山東省の高密県にも日本軍が侵攻してくるのである。それに対して、中国人たちは、三つの党派に分かれて立ち向かった。一つは沙月亮が率いる黒驢馬隊、これは自然発生的に生まれたゲリラ組織で大した政治的な背景があるわけではない。その証拠に、後には日本軍に協力するようになる。その挙句、日本が負けると、指導者の沙月亮は首を吊ってしまうのである。その沙月亮に上官家の長女来弟が惚れ、女の子を産み、その子を母親が我が子のように育てるのである。また、この沙月亮が原因で、上官家が住む村は日本軍に襲撃され、そのさいに母親の配偶者と舅が殺される。一方、沙月亮の部下たちは母親を輪姦した挙句、金童の父親マローヤ牧師まで殺してしまうのである。そんなわけで、沙月亮の仲間たちはもっとも狂暴でかつ無節操な連中として描かれている。

二つ目の党派は司馬庫率いるゲリラ部隊で、これは後に国民党系だということがわかる。司馬家は村の名家で、大きな屋敷をかまえている。その屋敷は小説の節々で重要な出来事の舞台になる。ともあれ、司馬庫は独自の判断から日本軍が管理する鉄道の爆破などを行うのだが、その報復を受けて、村は壊滅的な打撃を受け、司馬家の人々は幼い子供一人を残して殆ど殺されてしまう。その子どもも母親は育てることになるのだ。司馬庫には二女の招弟が惚れ、双子の子どもを生むことになるが、その子どもたちは土地改革時代に貧農たちに殺されることとなる。司馬庫自身は、もっと後の段階で殺されるのである。その司馬庫を、母親は男の中の男だと褒め、我が子の金童にもそのようになって欲しいと願うのだが、金童にはそんな度量はないのである。

三つ目の党派は、共産党のゲリラで、その副官に蒋立人というものがあった。この人物は後に、勇敢だった上司の性をついで魯立人と名乗る。この男に上官家の五女分弟が惚れ、女の子を産むが、その子も母親が育てる。魯立人は共産党が権力を握るとそれなりに羽振りを利かせるのだが、世渡りがうまくはなく、あまり出世はしない。彼の妻となった分弟は、母親はじめ家族の面倒を見ようとはしない。そんな彼女を、金童も母親も冷酷だと言って非難するのである。

以上、上官家には中国現代史に大きな役割を果たした三つの勢力がかかわりを持つ。その三つの勢力は、入れ代わり立ち代わり権力を握り、そのたびに上官家にもその余波が及ぶのだが、あまりよいことは起こらない。抗日戦の時代や、国共内戦の時代のように、過渡的で浮沈定まらぬ時代はともかく、共産党の時代になっても、世の中は安定せずに、かえって混乱するばかりなのだ。その混乱を上官家はまともにこうむり、母屋はいつも生きるのに難儀しているばかりなのだ。彼女は、待ち望んで生まれてきた男の子の金童に期待をかけたいところだが、金童は期待にこたえるどころか、十代の半ばになっても母親の乳房を恋しがるばかりなのだ。そんなドラ息子に母親は、不平もいわずに乳房を差し出すのである。その乳房から出て来る乳は、その時折の母親の栄養状態を反映している。うまいものを食って栄養が満ち足りている時には甘い乳が出るし、食い物に事欠いて雑草を食っているときには、雑草のほろ苦い味がするのである。

食い物といえば、上官家にかかわりのある重要人物の一人に鳥人韓という人間が出て来る。鳥人韓は、その名の如く鳥のように振る舞い、また鳥を捕獲しては、上官家の栄養状態をよくしてくれるのだが、ある時日本軍に連行されてしまう。いわゆる徴用工としてである。韓は、日本の北海道の鉱山で強制労働をさせられるのだが、鉱山から逃亡して山の中にひそんでいるうちに、日本の敗戦を知って山東省に戻ってきた。その韓を、三女の領弟が慕い、韓が連れ去られた後は鳥の巫女となるのだが、韓が戻ってくる前に、不幸な生涯を終えることになる。

この他にもさまざまな人々が登場して、色とりどりな人生模様を繰り広げる。その模様の中心にいるのが、語り手たる上官金童である。かれは物語の語り手に相応しく、みずからはでしゃばった行動をしない。つねに控え目である。控え目であることが災いして、自分自身を守ることができず、十五年間もの間懲役に服したり、精神病の疑いをかけられて精神病院に三年間も閉じ込められるのだ。そんな金童をわき目に流すように、中国の現代史は淡々とした歩みを続ける。一人一人の人生は、中国史という壮大なゲームの単なる一コマにすぎないかというかのように。実際この小説には、心は持ってはいても、考えを持っている人は出てこないのである。




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