漢詩と中国文化
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莫言の自己引用


莫言には自己引用癖があって、小説の中でたびたび自分の作品や自分自身を引用或は言及する。これは、大江健三郎を模倣したのか、あるいは彼自身のこだわりなのか。大江の場合には、自己引用癖が現われるのは晩年の作品のなかであり、それも後発の作品が以前の作品を引用するような形をとった。そこから、一連の作品が相互に響きあうような独特の効果を生み出し、複数の作品が一つの世界を共有しあうような体裁を呈した。大江は、最初は大した意図があってそうしたのではないようだが、やがて意図的にそうしたスタイルを追求したようだ。そのことを通じて、大江が影響を受けたらしいバルザックの人間喜劇の世界を再現しようとしたのかもしれない。

莫言の場合には、大江ほど組織的な引用は意図していない。たとえば、「転生夢現」を読むと、小説本文との関連で莫言の名が出て来て、小説内の出来事を莫言も別の小説のなかで書いたというようなことを言っている。これは、豚の養豚にかかわるエピソードの部分を、莫言が「養豚物語」という小説の中で、書いたというような意味のことだ。「転生夢現」では、莫言自身が登場人物になっていて、たびたび活躍する。しかしその活躍ぶりには、たいした必然性はみられない。どうでもいいような、つまり存在してもしなくても、小説全体の進行にたいした影響を及ぼさないような働きぶりだ。だから、それを活躍という言葉で言い表すのは、或は適切ではないかもしれない。

「酒国」は、莫言にとっては比較的所期の作品だが、そこに莫言は、自分自身を重要な人物として登場させている。その登場のさせ方は、実にユニークなものだ。小説の作者が自分自身を小説の中に登場させるのは、だいたい語り手としてであって、一人称の形式をとることがほとんどだ。一人称を採用していて、しかも架空の人物に語らしている場合もないわけではないが、自分自身を登場させる場合には、一人称を採用する以外、うまい方法はないのではないか。

ところが莫言は、「酒国」の中では、三人称の形で自分自身を登場させるのだ。この小説には、莫言という人物と李一斗という人物が出て来て、彼らが往復書簡を交換するというかたちで展開していく。純粋に形式的な見地から見れば、この小説に出て来る莫言という人物は、莫言という名称を付されてはいるが、実在の莫言とは何らの関係を持たないという風にも設定できたはずである。むしろそのほうが自然だったろう。ところが、この小説に出てくる莫言は、実在する作家の莫言と異なるものではないと、明確に言及されるのである。それゆえ読者は、この莫言なる人物を、この小説の作者である莫言と受け取るほかはないのである。

こういう人物設定は、莫言以前にはなかったのではないか。その莫言は、実在の莫言と同じく作家ということになっており、「赤いコーリャン」が出世作になったと言われている。その紹介の仕方が謙虚である。この小説は張芸謀によって映画化されたのだが、その映画がカンヌでパルムドールをとったおかげで、原作も一躍有名になった。だから莫言の名が広く知られるようになったのは、張芸謀の映画のおかげだというのである。

「酒国」においては、莫言が書いたらしい小説が全体の中軸としての役割を果たし、それに李一斗が書いた一連の短編小説が周辺的な彩を添えるという形になっている。その短編小説群は、文通に付属して届けられるのだが、それを読んだ莫言は、自分の小説の中に生かしたり、自分自身の快楽の材料に活用したりするのである。その場合、とくに光を放つのは、酒にかかわる話題であって、これは小説のタイトルが「酒国」であることからも、自然な勢いだと思う。この小説は、「酒国」という架空の都市を舞台にしているところから、そのようなタイトルを付けられたのであるが、こと酒に関していえば、ただにタイトルにかかわるだけでなく、酒についての莫言自身の蘊蓄を披露するという機能も果たしているのである。この小説は、洒落た酒類礼賛ともなっているわけである。

莫言自身の役割であるが、当初は文通の当事者として、李一斗を相手に気楽なことを言いあっているのであるが、文通が進むにつれて、次第に現実と虚構との区別が曖昧になる。その挙句に莫言は、李一斗に誘われる形で酒国を訪問し、そこで手厚いもてなしを受ける。そのさいにかれをエスコートする人たちというのが、この小説の中で、架空の物語として言及される小説の登場人物なのである。共産党の市委員会の幹部とか、背丈一尺の侏儒といった連中である。これに「肉童」と呼ばれる子どもが出てくれば申し分がないのであるが、「肉童」は出てこない。「肉童」はあくまでも想像の中のキャラクターだと言いたいようである。

そんなわけでこの小説は、かなり複雑な構成になっている。いくつかのサブプロットが集まってひとつのまとまりを作っているのだが、そのまとまりはあまり密接なものではない。だから全体として一つの物語としての統一性を感じさせない。物語としての統一性を担保しているのは、莫言というキャラクターの働きだ。だからこれは、莫言というキャラクターを中心軸に、入れ子状にもつれあった小さな物語群の集まりであり、その集まり方には、たいした法則性は指摘できない。ただ、常に莫言という人物の視点が決定的な参照軸として働いている。だからこの小説は、莫言という人物の視点から、世界を眺め渡したというような体裁になっている。莫言の視点は、神の視点を思い出させるのである。




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