漢詩と中国文化
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莫言を読む


莫言がノーベル賞を受賞した2012年前後には、ほとんどの日本人は村上春樹の授賞を期待していた。莫言は隣国中国の作家であるが、日本ではほとんど無名の存在で、したがってその作品も知られていなかった。莫言の小説を原作とする映画「赤いコーリャン」が世界的評判をとったことは、一部の映画ファンのなかで話題となったが、なにしろこの映画は、中国人の抗日闘争をテーマとしたものであり、日本兵の残虐さが大袈裟に描かれていたので、日本では悪質な反日映画と受け取られ、上映はされたものの、評判はよくなかった。そんな莫言が、ほかでもない村上春樹をさしおいて、同じアジア人作家としてノーベル賞を受賞したというので、日本じゅうがあっけにとられたものである。

じっさい日本では、大江健三郎が評価した以外には、莫言を積極的に評価する動きはほとんどなかったと言ってよい。日本にはもともとアジア蔑視の傾向があって、自分たち日本人を夜郎自大的に褒めちぎるクセはあったが、したがってわけのわからぬアジア人作家よりも、日本人である村上春樹がノーベル賞をもらって当然なのに、その村上春樹をさしおいて、莫言がノーベル賞を受賞したことは、民族としての自尊心をいたく傷つけられる出来事でもあったわけだ。

村上春樹はいまだにノーベル賞をもらっておらず、それには相応の理由があると小生などは思っている。その理由について、小生なりに分析してみたこともある(拙論「村上春樹がノーベル賞と無縁なワケ」)。したがって村上春樹を引き合いに出して莫言のノーベル賞受賞について云々することは、的をはずした行為というべきであろう。村上春樹とは無関係に、莫言自身の文学的達成について云々すべきであろう。

そこで、莫言文学をどうとらえるべきかという議論になる。その捉え方には、文学的と政治的との二つの流儀があった。ふつう文学を政治的な意図で評価することは、外道というふうに見なされているが、莫言の場合には、その政治的な意図を思わせる「批判」が多く出された。それは莫言が中国共産党の党員であることを理由としていたようだ。中国共産党の党員であることは、中国の政治的体制にコミットしているということだ。それを理由に、莫言は中国の体制を擁護する作品を書いているというような言い方につながった。そういうことを言う人たちは、文学というものは、権力に距離を置くべきだという主張をするわけだが、本当のところは、中国嫌いであったり、共産主義アレルギーであったりするのである。日本の場合にはこれに、反日はけしからんという素朴な感情が付け加わる。そんなわけで莫言は日本ではことのほか評判が悪いわけである。

莫言の文学的な捉え方については、ノーベル賞の授賞理由が参考になる。それには、「幻覚的なリアリズムによって民話、歴史、現代を融合させた」とある。「幻覚的」とは、英文表記では hallucinatory となっている。幻覚を起させるような、という意味である。それがリアリズムと結びついて「幻覚的リアリズム」になるわけだが、言葉の意味からすれば、幻覚とリアリズムとはなかなか結び付かないのではないか。リアリズムとは、現実感覚を重視するという意味だ。それに対して幻覚は、現実感を喪失した状態を意味する。現実感を喪失した状態でもたらされるリアリズムとは、いったいどういう意味か。この二つの言葉には、形容矛盾の間柄を指摘できるのではないか。

そういう形容矛盾らしい言葉同士の結びつきで表現せざるをえないほど、莫言の文学世界は特異だと言いたいようである。その特異さをもって、民話、歴史、現代を融合させたもの、それが莫言の文学世界だと、ノーベル賞の授賞理由は述べているようなのだが、そう述べることで一体何を言いたいのか。

幻覚的なリアリズムという言葉によって表されているのは、莫言の表現スタイルというか、表現の方法論だと考えられる。その方法論については莫言自身が証言している。かれは、自分が影響を受けた文学として、ガルシア・マルケスをはじめとした中南米の作家たちと、フォークナーをあげている。中南米の文学には、マジック・リアリズムとかグロテスク・リアリズムといった定義づけがなされることが多い。とくにマルケスの作品に顕著だが、虚構と現実の境界を無視して、時空を超越した体験がさも現実の出来事として語られる。一方フォークナーのほうは、時間の秩序を無視して、異なった時間の出来事が同時並行的に語られる。単純化して言うと、マルケスらの作風は空間の超越、フォークナーのほうは時間の超越と言えそうである。

莫言の文学世界には、そうした時間空間の両面にわたる虚構と現実との融合というべきものが見られる。それをノーベル賞の授賞理由は「幻覚的リアリズム」と表現したのであろう。

一方、民話・歴史・現代の融合という点については、これはよく莫言の作品の特徴を言い当てている。莫元の作品には、中国近現代史を舞台にしたものが多い。その点では歴史と現代とが共存しているような物語になっている。その物語が、中国の民衆に伝わる民話を思わせるような語り口で語られる。莫言の作品を彩っているのは、個人ではなく集団としての人間たちだ。欧米の文学の伝統にあっては、あくまでも自立した個人を中軸にして、人間の内面が語られる。モーリャックやジョイスの文学作品はその到達点だと言われる。それにたいして莫言の文学作品では、個人の内面が語られることはほとんどない。そこは民話と同じで、自立した個人の内面世界ではなく、典型的な人間類型が展開して見せる外面的な行為が語られるわけである。

そのほか莫言の文学の特徴として、暴力礼賛、あつかましさ、低回趣味、ゲテモノ偏愛、スカトロジーといった要素を指摘できる。こうした要素は、中世以来のヨーロッパ文学にも指摘できるが、ラブレーに見られるようなそうした傾向に比較すると、莫言には東洋的といってよいような独特な風味が感じられる。その一方で莫言の文学には、男女の間のとろけるような恋愛はみあたらない。莫言の描く男女は、熱烈な愛をかわすというよりは、したがって精神的な高揚を求めあうというよりは、肉体的な結合に満足している。それは、莫言が個人としての人間よりも、社会的類型としての人間にこだわっていることと関係がありそうである。

ともあれ莫言の文学世界は、それなりに豊穣で味わい深い。ここではそんな莫言の文学世界について、代表作を読み解きながら、その魅力の秘密に迫ってみたい。



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