漢詩と中国文化
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最晩年の李白:投獄と恩赦


756年、安禄山によって長安を追われた玄宗は、成都に逃れて位を第三王子(粛宗)に譲った。一方第十六王子の永王には華南一帯を掌握するように命じた。だが永王は混乱に乗じて自分が実権を握り、皇帝になろうとする野心を抱いていた。李白はそんな永王とかかわったことが原因で、惨めな晩年を送ることになる。
長安の北西に拠点を構えていた粛宗は、江陵付近にいた永王に対して、成都の玄宗のもとに駆けつけるように命じた。しかし永王は命令を無視し、大水軍を率いて長江を下った。江南に拠点を設けようとしたのである。

永王の軍が九江に差し掛かったとき、当時そこに身を寄せていた李白は招かれて永王の船に乗った。李白は永王を、安禄山討伐の大将軍と誤認し、永王の野心を見抜けなかった。そこで彼は永王の軍の桂冠詩人のような役割を担わされ、永王をたたえる詩を作った。

757年の2月頃、永王は政府軍によって捕らえられ、即座に処刑された。永王はそれ以前に逆賊として部下たちにも見捨てられ、裸同然の状態だった。李白も多くの部下が去るのに便乗して、永王のもとを去っていた。そして表向きは、自分は自発的に永王の軍に加わったのではなく、誘拐されたのだと主張した。

だが李白の主張は認められなかった。捕らえられて九江の獄に投ぜられたのである。李白の妻は夫のために釈放の嘆願をし、李白自身も宰相に詩を送って、暗に釈放を求めたりした。そうした努力が実ったのかどうか、それは明らかではないが、秋ごろ釈放されることができた。宋若思という人物が九江を通ったとき、李白の事件を再吟味して、その釈放を命じたのである。

釈放された李白は、一時期宋若思に仕えたが、やがて九江に戻っている。そして758年の8月、夜郎へ流罪にされることになった。李白を開放した宰相が失脚したために、李白の罪が改めて蒸し返された結果である。

夜郎は中国最西端、雲南の山中である。そこへ着くため、李白は船に乗って長江を遡った。だがそんなに窮屈な思いはしなかったらしい。かなり長い間武昌に滞在したり、各地で多くの友人たちと語り合ってもいる。

759年の春、三峡についた頃、李白は恩赦の知らせに接した。李白は今度は長江を下ることになったが、折から史思明の乱が勃発しており、中国各地は再び戦乱に巻き込まれていた。李白は秋になってやっと、武昌までたどり着いたのである。

最晩年の李白は、南京の李陽氷のもとに身を寄せた。李白の最初の詩集を編纂したのは、この李陽氷であった。






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