漢詩と中国文化 |
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李白の生涯と作品 |
李白は申すまでもなく杜甫と並んで中国が生んだ最も偉大な詩人である。しかもこの二人は李白が11歳年長だったことを考慮に入れても、ほぼ同時代人であった。そこから李杜と並び称されるようにもなるが、これは単に同時代人としての併称であることを超えて、中国4000年の文学の真髄を表した言葉なのでもある。 この二人が生きたのは8世紀の前半、盛唐と称される時代であった。7世紀の末に唐王朝は則天武后による逸脱を経験していたが、その後王朝は再興され、大極元年(712)玄宗が皇位について、未曾有の繁栄を謳歌する。李白はよきにつけ悪しきに付けこの時代の雰囲気を体現して、1000首余りに上る膨大な詩を残した。 李杜の作風にはおのずから相違がある。その相違はまた中国文学の持つ二つの特質をある意味で表現したものだともいえる。杜甫の作風は堅実で繊細、しかも社会の動きにも敏感で、民衆の苦悩に同情するあまり時に社会批判的な傾向を帯びる。 それに対して李白の作風は豪放磊落という言葉に集約される。調子はリズミカルで内容は細事に拘泥せず、天真爛漫な気持ちを歌ったものが多い。社会の動きに時に目を配ることはあっても、人民の苦悩に同情するところはほとんどない。こんなこともあって、現代中国では杜甫に比較して評価が低くなってもいるが、その作風が中国文学の大きな流れのひとつを体現していることは間違いない。 李白の出自については長らく、四川省出身の漢民族だという説が有力であった。しかし前世紀の半ば以降緻密な研究が重ねられた結果、李白の一族は四川省土着のものではないということが明らかになった。彼の父とその祖先は西域を根拠としてシルクロードの貿易に従事する人たちだったらしい。その一家が李白の生まれた頃に蜀(四川省)にやってきた。そして李白が5歳の頃に、現在の四川省江油市あたりに定住した。もしかしたら、李白は漢民族ではなく、西域の血を引いていた可能性がある。 唐の時代には、偉大な文学者はほとんどすべて官僚であった。官僚にならずに終わった人も、生涯のある時期、官僚を目指して進士の試験を受けるのが当たり前であった。ところが李白には自らこの試験を受けようとした形跡がない。彼は生涯を無衣の人として過ごすのであり、放浪に明け暮れた人生を送った。また人生の節々で色々な人と出会い、宮殿の端に列するようなこともあったが、その折の李白は文人としては敬意を評されても、一人の人間として高い尊敬を受けたとは思えない。これらのことが彼の出自と関係していることは大いに考えられる。 李白の生涯は大きく五つに区分できる。 @ 青少年時代とも言うべき時期で、李白は25歳頃まで蜀の親の家で過ごした。 A 最初の放浪時代。蜀を出て長江を下り、中国各地を放浪する。25歳ころから42歳頃までの時期である。 B 天子の命を受けて宮中に列なった時代。42歳頃から44歳頃までの短い時期であったが、李白生涯唯一の華やかな時期であった。 C 宮中を追放されて再び放浪する時代。この時期が彼の詩作のもっとも花開いたときであった。 D 永王の変に巻き込まれた挙句の追放そして放免。56歳ころから62歳で死ぬまで。 少年時代の李白がどのような教育を受けたかについてはよく分っていないが、すでに15歳にして「明堂賦」というものを書いている。明堂とは宇宙の根源を祭る堂であり、皇帝の支配を天下に知らしめるための建物である。この建物に玄宗が生贄を捧げて天下の安定を祈る儀式をしたことを称え、李白はこの賦を作ったのだとされる。出来栄えはともかく、15歳にしてこのような作品を作れたのであるから、それ相応の教育を受けていたのだと推測される。李白の父親は知識人ではなかったが、子の教育には金をいとわなかったようだ。 李白はまた青年時代に義侠心に目覚め、そういった人々との交友もあった。生涯にわたって、自分の義侠心を誇りにもしている。 25歳で蜀を出たあと、李白は長江流域を中心に各地を放浪するが、27歳のときに、湖北省安陸の許御師の孫娘と結婚し、妻の家で暮らし始める。この妻とは一男一女を設けているが、若くして死別したらしい。李白はその後3人の妻を娶っている。二人目の妻は劉某といったが、短い期間で別れたらしい。3人目の妻は魯(山東省)の婦人である。名はよく分らないが、この婦人は李白の詩にたびたび出てくる伯禽という息子を産んだ人と思われる。そして最後の妻は50台半ばで娶ったようだ。 30歳頃から再び放浪を始めたが、それは半ばは官職を求めるためでもあった。孟浩然や隠者元丹丘と交流したのはその頃である。また35歳ころからは太原、長江流域、魯の泰山などに遊んだ。孔巣父らと徂徠山に隠れ住み、「竹渓の六逸」などと称されたのは37歳の頃である。 それにしても生涯生業につかず自分の家さえ持ったことのなかったものが、どこからこの放浪の資金を得たか、謎は多い。父親の残した遺産を使い果たしたとする見方もあるが、それだけでは説明できそうもない。あるいは日本の芭蕉のように文名によって後援してくれるものがいたのだろうか。 李白が玄宗皇帝の宮廷に招き入れられたのは道教仲間の口利きによるものだった。743年に若い頃からの友人呉インがまず宮廷に召されたが、彼は李白のことを皇帝の玉真公主に話した。公主も熱心な道教信者だったのである。李白に興味を覚えた公主が兄に勧めて、李白を宮廷に呼んだというのが真相らしい。 しかし李白は官職を与えられたのではなく、翰林院に侍して皇帝の外出のお供をし、折に触れて儀礼的な詩を作るように求められた。いわば宮廷詩人である。この待遇に対して、李白自身はあまり満足しなかったようだ。彼の本意は官僚になることにあった。 長安時代の李白の詩には、酒を歌った豪放なものが多い。このとき李白が親しく付き合った賀知章や崔宗之もまた酒好きであり、彼らはほかの数名の酒飲みと合わせて「飲中八仙」などと称されていた。 だが李白は長安にはそう長くはいられなかった。政敵がいたのである。その一人で有力者であった宦官高力士の策略によって、744年の秋には都を出ざるをえなくなった。高力士は熱心な仏教徒であったので、呉インや李白などの道教徒を玄宗の周辺から追放しにかかったのである。 長安を出て後、李白はさらに放浪の旅を続ける。彼は長安を出た後、洛陽で杜甫と出会い、すっかり意気投合した。そしてこの放浪の始まりを杜甫とともに過ごし、745年に魯の石門で別れたようである。 その後、呉越に遊んだ後金稜にいったん腰を落ち着け(748)、ついで江南、南陽、邯鄲、蘇州、幽州などさまざまな地を巡って歩いた。彼の有名な詩にはこの時期に書かれたものが多いとされる。 放浪の途中、李白は各地で兵が徴収されている様子を見聞し、それを詩にも描くが、やがて安禄山の乱が勃発する。この乱は李白の運命に大きな影を与えた。というのも李白は、安禄山平定を名義に立ち上がった永王の幕下に加わり、一旗上げようともくろんだからである。 安禄山は755年に兵を動かし、翌年6月には長安を陥落させて略奪をほしいままにした。玄宗は蜀に逃れて成都を南京とし再起をはかり、息子の永王に命じて華南一帯を掌握させようとした。その折に魯山に隠棲していた李白のもとに誘いがかかった。李白は喜んで永王の幕下に馳せ参じたのである。 ところが永王は757年に兄の粛宗によって叛徒の汚名を着せられてしまった。李白もまた罪を問われ、尋陽の獄に投ぜられた後、夜郎(貴州)に流されることとなった。 李白は長江を船でさかのぼって夜郎へとおちていくが、途中恩赦の知らせに浴す。だが罪を許されて後も放浪の旅を続けたことはいかにも李白らしい。 李白は61歳のときに当塗(安徽省)県令利陽氷のもとに身を寄せ、翌年の秋利陽氷の邸宅で死んだ。だが李白の死については、その後伝説が作られた。当塗の近くで長江に船を浮かべ酒を飲み詩を詠じていたときに、水面に映った月を取ろうとして溺れ死んだという「捉月伝説」である。酒仙といわれた李白に相応しい伝説といえよう。 また李白の生誕を巡る伝説も流布した。これは友人の賀知章が李白を「謫仙人」と呼んだことに由来するもので、李白は天井から使わされた堕天使だとするものである。こうした伝説を踏まえて、後世李白を詩仙と呼び習わすようになった。 なお、死に際して遺作はすべて利陽氷にゆだねられた。今日我々が読んでいる李白全集は、この利陽氷の編集したものが原本となっている。利陽氷は李白の膨大な数の詩をテーマ別に分類して編集したので、書かれた年代やその背景などは詳しくない。このほか、53歳のころ揚州で出会った魏万にあずけた原稿類も存在しており、魏万はそれを李白の死後に出版している。 |
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