漢詩と中国文化
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川島真「近代国家への模索」:シリーズ中国近現代史


岩波新書版「シリーズ中国近現代史」Aは、1894年から1925年までの約三十年間をカバーしている。清朝が自滅的に崩壊し、その後中国という国民国家の建設に向けて動いていた時代だ。この時代を著者は、既成の見方からなるべく自由な立場から、できるだけ相対的に見ていきたいと言っている。既成の見方の代表は、中共史観ともいうべきもので、この時代を過渡的なものと位置づけ、最後には中国共産党が革命へと導いていったとする見方である。それに対して著者は、「この時期は、『救国』のためのさまざまな考えが溢れ出し、『中国』の人々の想像力が最大限に膨らんだ時期」であり、現代では見られない『中国』のさまざまな可能性が示された時期」と見ている。

中共史観によれば、この時代を代表するのは孫文であり、かれが辛亥革命のシンボルとして清朝を倒し、国民党を組織しながら中国の近代化に中心的な役割を果たした。しかしそれはやがて共産党の路線によって乗り越えられていく。だからこの時代は、清朝支配と共産党政権との間にはさまった過渡的な時代であり、辛亥革命はある種のブルジョワ革命であり、また異民族支配を清算して「中国」という国民国家が形成された時代であるということになる。

ところが、よく見るとそんな単純なものではないと著者はいう。孫文はたしかに中国の近代化に大きな足跡を残したが、その果たした役割は、思われるほど大きなものではない。辛亥革命が起った時、孫文は海外にいたのであり、革命そのものを指導したわけではない。この革命は、各省が連合して清朝に対立した結果おきたものであり、その意味では、中央集権的な清朝権力と地方分権的な各省権力との対立の産物だったということになる。じっさい清朝末期には、各省を拠点とした地方分権的な勢力がかなり強かったのである。それは漢族が統一した権力基盤をもたなかったことを反映しているわけだが、中国にも分権的な要素が強く存在していたということは、今日の中国を考えるうえで、大きなヒントを与えてくれよう。

そんなわけで、中国の近代化に向けたさまざまな動きのなかには、中央集権を目指すものと、地方分権を重んじるものとがあった。そうした動きの相剋の中から、とりあえずは蒋介石が勝利者となったわけだ。その蒋介石は、基本的には中央集権をめざした。近代中国にとってまず克服しなければならないのは、軍閥に象徴されるような分散的。遠心的勢力を駆逐して、統一した国家と中央集権的な政府を作ることだ。そういう問題意識が働いた結果、蒋介石はとりあえず集権的な権力を創り出したのであるが、そうした中央集権主義的な発想は、その後の民族問題に大きな影を投げかけた、と著者は言う。

清朝は、満州族に漢、蒙、回、蔵を加えた五族を中心に構成されており、各民族の自立性がかなりな程度尊重されていた。いわば五族の共同政権として清朝を位置付けていたのである。だから漢族が他の民族に優越するという発想はなかった。ところが蒋介石の中央集権政府は、漢族を中心に構想された。それには、満州族を当面の敵とし、漢族の自立をはかるという要請が働いていた。その要請が、漢族の他の民族にたいする優越への志向をもたらした、蒋介石は、清朝の支配する版図をそっくりそのままひきついだわけだが、その版図に含まれる五族を当然のことのように中国の構成要素として引き継いだ。その上で、漢族の支配的役割を当然視したわけである。

蒋介石に比べて、共産党は、すくなくとも当初は、各民族の平等を重んじていた。共産党の旗印は五星紅旗だが、五星は五族のシンボルなのだ。それに対して国民党の旗印青天白日旗は、輝く太陽としての漢族をシンボライズしている。ここに見られるように、蒋介石は漢族中心であり、中共は各民族の分権を含めて地方分権的な性格が強かった。しかしそれは、共産党の権力が確立されるまでのことで、権力を握った共産党が、回族やチベット族など、他の民族に対して強権的な態度をとるようになったことは、よく知られているとおりだ。

こうした動きの他に、著者は、中国近代史にかかわった日本の役割に注目している。日中関係は日清戦争に象徴されるように、かならずしも望ましい関係ではなかった。というより、日本側の一方的な侵略行為を色々な面で指摘できる。太平天国鎮圧後にも引き続き軍を駐在させたり、日露戦争後には遼東半島を租借したり、第一次大戦をバネにして山東半島を支配したりと、日本は好きなように中國を侵略した。そうした日本に対して中国側は、日本と共に連携して列強に立ち向かうという、アジア主義を掲げる向きもあったが、日本はそれに耳をかさず、かえって中国への侵略を進めた。

そうした日本を含めて、中国は列強からの侵略を受けた。そうした侵略は不平等条約をバネにして行われた。そこで近代中国の課題は、不平等条約を破棄して国としての自立性を確立することだった。だがそれは、容易に実現したわけではない。それを実現させたのは、中国が戦争に参加して、それに勝つことを通じてだった。中国はパリ講和条約には調印しなかったが、第一次大戦の戦勝国として(中国は大戦末期の1917年に参戦した)、列強からそれなりに処遇された。山東半島の利権を取り戻すことはできなかったが、不平等条約の何らかの不都合な部分を解消させることには成功した。第二次世界大戦に参加したことは、日本に奪われた領土の奪回につながった。このことは、戦争の持つ意義を考えさせるものだ。

日中関係は、国家レベルでは不幸な関係が続いたが、民間レベルでは深い結びつきもあった。中国人の留学生が向かったのはまず日本だった。日本を近代化の模範とするとともに、日本を通じて西洋を学ぼうとしたのである。また孫文を宮崎滔天が支援したように、人的な交流もあった。その頃の日本人には、中国人に対して礼儀をわきまえながら接する人々もいたということである。いまの日本からはなかなか考えられないことである




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