漢詩と中国文化
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烏孫公主 劉細君



武帝の時代の漢は、絶えず匈奴と緊張状態にあった。漢は周辺諸国と積極的に同盟関係を結び、匈奴を牽制する策を用いた。そうした小国の一つに烏孫国があった。現在の新疆省にあたる地である。漢は同盟の証しに、王家につながる女性たちを嫁がせたが、その中に、後に烏孫公主と称される薄幸の女性がいた。

烏孫公主は皇族の女性で、その名を劉細君といった。父親の劉建は武帝の兄劉非の子、江都王をついでいたが、悪逆無道の男であったらしく、謀反を理由に誅殺されている。

劉細君は泣く泣く烏孫に嫁いだが、夫たる年老いた王とは言葉も通じず、風俗は何もかも知らぬことばかり。

そんな薄幸の烏孫公主がわが身を悲しんで歌った歌が残されている。


悲愁歌         
                                 
  吾家嫁我兮天一方  吾が家我を嫁す 天の一方
  遠託異國兮烏孫王  遠く異國に託す 烏孫王
  穹盧爲室兮氈爲牆  穹盧を室と爲し 氈を牆と爲し
  以肉爲食兮酪爲漿  肉を以て食と爲し 酪を漿と爲す
  居常土思兮心内傷  居常土思して 心内に傷む
  願爲黄鵠兮歸故ク  願はくは黄鵠と爲りて 故クに歸らん

漢の家は私を天蓋の果てに嫁したので、今はこうして異国にあって烏孫王に身を託しています、

この地はテントを部屋とし、毛布を壁として、肉を食べ、獣の乳を醤油の代わりにしています

明け暮れこの地にあって、故郷を思い心の痛まぬ日はありません、願わくは黄鵠となって故郷に飛んで帰りたい。


穹盧は西域の遊牧民が住まいにつくったテントのことだが、実際の烏孫公主は漢風の宮殿を建ててもらってそこに住んだようである。

烏孫の王が老齢のために死ぬと、公主はその子の妻となって子を設けた。当時の遊牧民は、父が死ぬとその妻まで子に相続される習慣があったのである。






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