漢詩と中国文化 |
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東坡八首(敘):蘇軾 |
黄州の蘇軾の周りには様々な人が集まってきたが、そのなかには旧知の馬夢得もいた。彼はもう20年も蘇軾に付き合っていたのだったが、蘇軾が罪を蒙って流謫の身にあってもなお、見捨てることはなかった。 その馬夢得が蘇軾のために一肌脱いで、黄州郊外にささやかな土地を借りてやった。時に元豊4年のことであった。 蘇軾はその土地を東坡と名付け、自分を東坡居士と称するようになった。東坡とは蘇軾が敬愛した詩人白楽天が自らの農場に名づけた名であった。蘇軾は流謫された詩人の先輩格である白楽天にあやかって、自分も東坡と名乗ったのである。 余至黄州二年,日以困匱,故人馬正卿哀余乏食,為於郡中請故營地數十畝,使得躬耕其中。地既久荒為茨棘瓦礫之場,而歳又大旱,墾辟之勞,筋力殆盡。釋耒而嘆,乃作是詩,自憫其勤,庶幾來歳之入以忘其勞焉。 余黄州に至りて二年,日に以て困匱す,故人馬正卿余の食に乏しきを哀れみ,為に郡中に於て故の營地數十畝を請ひ,其の中に躬耕するを得しむ。地既に久しく荒れ茨棘瓦礫之場と為る,而して歳又大いに旱す,墾辟之勞,筋力殆ど盡く。耒を釋(す)てて嘆き,乃ち是の詩を作り,自ら其の勤を憫(あは)れむ,庶幾(こひねが)はくは來歳之入以て其の勞を忘れんことを。 自分が黄州に来て2年がたつが、ますます困窮が深まるばかり、旧友の馬正卿は我が貧乏を哀れみ、郡中の官営地数十畝を願いうけて、自分に耕すことを認めてくれた。 土地は荒れ放題で茨棘や瓦礫が散乱し、また旱でからからに乾いている、そこを耕すことは容易なことではなかった そこでスキをなげうってこの詩を作り、自分のことを哀れんだ次第だ、願わくば来年の春には実を結び、この労力が報われるように 蘇軾ははじめ、仮住まいの臨皐亭からこの東坡へ通っていたが、そのうちに東坡の中に小屋を建てて住むようになった。雪堂と称するこの小屋を、蘇軾は自分の手で建てたのであった。蘇軾には建築の心得もあったのだ。 |
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