漢詩と中国文化
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北征:杜甫を読む



粛宗から左拾遺の職を授かった杜甫だが、一月足らずのうちにその職を危うくするような事態が起きた。陳陶、青阪の二つの戦で安碌山軍に大敗した房?の責任を追及する声が起こったとき、杜甫は房?を擁護したのだったが、そのことが粛宗の怒りに触れたのである。

左拾遺といえば低官ながら皇帝に直接意見を言える立場にある。杜甫は半ばは自分の職責だと思って房?を擁護する意見を述べたと思われるが、朝廷の中では房?を追い落とそうとする勢力が強く、また粛宗自身も率直な意見に耳を傾けるだけの度量に欠けていたのかもしれない。こうして杜甫は左拾遺の職を解かれたのだ。

こんな逆境に俄かに陥った杜甫であるが、鹿州に置いてきた妻子のことは常に気がかりであった。そこで妻子を迎えにいくことを粛宗に願い出た。杜甫を疎んじ始めていた粛宗は杜甫の願いを許す。

こうして杜甫は、鳳翔にたどり着いてから四ヵ月後に、鹿州へ向かって旅立った。全長350キロの、長くて険しい道のりだったが、今回は馬に乗り従者を従えての旅であった。

杜甫はその旅の様子を「北征」と題する長い詩に描いている。杜甫の詩の中でも最高傑作の一つに数えられる作品である。

詩は大きく分けて三つの部分からなる。最初は困難な旅の様子を描いた部分、中間は家族との再会を喜んで歌った部分、最後は回乞の援軍を得て国を取り戻そうとする気概を歌った部分である。


杜甫の五言古詩「北征」(壺齋散人注)
  
  皇帝二載秋  皇帝二載の秋
  閏八月初吉  閏八月初吉
  杜子將北征  杜子將に北征して
  蒼茫問家室  蒼茫家室を問はんとす

粛宗至徳二年の秋、閏八月の初め、自分はまさに北に向かい、蒼茫たる状況の中、家族に会いに行こうと思うのだ

  維時遭艱虞  維の時艱虞に遭ひ
  朝野少暇日  朝野暇日少し
  顧慚恩私被  顧みて恩私の被るを慚ず
  詔許歸蓬畢  詔して蓬畢に歸るを許さる
  拜辭詣闕下  拜辭す詣闕の下
  術タ久未出  術タして久しく未だ出でず
  雖乏諫諍姿  諫諍の姿に乏しと雖も
  恐君有遺失  君が遺失有らんことを恐る

この時賊軍による戦乱によって世の中は乱れ、朝野ともにあわただしい時期であったが、皇帝はかたじけなくも恩を垂れられ、自分に家族の待つあばら家へ帰ることを許された

皇帝に拝謁した自分は、恐悦していつまでも去ることができない、左拾遺という職にあって、皇帝を諌め奉る資質に欠けることに恥じ入るばかりだが、自分の不在中、皇帝に遺失があってはならぬと、心残りなのだ

  君誠中興主  君は誠に中興の主なり
  經緯固密勿  經緯固より密勿たり
  東胡反未已  東胡反して未だ已まず
  臣甫憤所切  臣甫の憤りは切なる所
  揮涕戀行在  涕を揮って行在を戀ひ
  道途猶恍惚  道途猶ほ恍惚たり
  乾坤含瘡痍  乾坤瘡痍を含む
  憂虞何時畢  憂虞何れの時にか畢らん

粛宗はまことに中興の主であらせらる、その政治には遺漏がない、だが賊軍の乱はまだ収まらず、自分の憤りは切実なところ

出発した後も、涙を揮って行在所を思い、道々心が呆然となる、世の中は傷だらけだ、この困難がいつになったら終わることやら

  靡靡逾阡陌  靡靡として阡陌を逾ゆれば
  人煙眇蕭瑟  人煙眇として蕭瑟たり
  所遇多被傷  遇ふ所は多く傷を被り
  呻吟更流血  呻吟して更に血を流す
  回首鳳翔縣  首を回らす鳳翔縣
  旌旗晩明滅  旌旗晩に明滅す
  前登寒山重  前みて寒山の重なれるに登り
  屡得飲馬窟  屡々飲馬の窟を得たり

歩みも遅々として道また道を越えていけば、人家からかすかに煙の上がるさまが寂しく見える、会う人は傷を負った人が多く、うめきながら血を流すものもいる

首を回らして行在所のある鳳翔縣を望めば、旌旗が闇の中に明滅している、進んで重なり合った山を登り、時に岩屋で馬に水を飲ませる

  阜郊入地底  阜郊地底に入り
  水中蕩□  水中に蕩□たり
  猛虎立我前  猛虎我が前に立ち
  蒼崖吼時裂  蒼崖吼ゆる時裂く
  菊垂今秋花  菊は垂る今秋の花
  石戴古車轍  石は戴く古車の轍
  青云動高興  青云高興を動かし
  幽事亦可ス  幽事亦スぶべし

阜州の野外は一段と低くなっており、その中を水が勢いよく流れている、時に虎が前に立ちはだかり、その叫び声が崖をも揺り動かす

折しも菊がこの秋の花を咲かせ、石には古い轍の後が残っている、空高い雲をみて悠然たる気持ちになり、幽玄な趣はまことに喜ぶべきものがある

  山果多瑣細  山果は多く瑣細なり
  羅生雜橡栗  羅生橡栗を雜ふ
  或紅如丹砂  或は紅にして丹砂の如く
  或K如點漆  或はKくして點漆の如し
  雨露之所濡  雨露の濡す所
  甘苦齊結實  甘苦齊しく結實す
  緬思桃源内  緬(はるか)に桃源の内を思ひて
  益歎身世拙  益々身世の拙なるを歎く
  坡陀望阜寺  坡陀として阜寺を望めば
  岩谷互出沒  岩谷互ひに出沒す
  我行已水濱  我が行は已に水濱
  我仆猶木末  我仆は猶木末なり

山中の果実は小さいものが多く、その中に橡や栗の実も混じっている、あるいは紅色が丹砂のようにも見え、あるいは黒いところが漆のようにも見える

雨露の潤いを受けて、甘い実も苦い実もみな一様に結実している、それを見るとかの桃源がしのばれる一方、自分の身の処し方があらためて拙劣に思えるのだ

そのうち阜州に近づいて、そこの寺が見えてきた、しかし近づくと思うやまた遠のき、岩山や谷が相次いで現れる、自分は川のほとりに差し掛かったというのに、従者はまだはるか後ろを歩いている

  鴟梟鳴黄桑  鴟梟黄桑に鳴き
  野鼠拱亂穴  野鼠亂穴に拱す
  夜深經戰場  夜深くして戰場を經れば
  寒月照白骨  寒月白骨を照らす
  潼關百万師  潼關百万の師
  往者散何卒  往者散ずること何ぞ卒(すみやか)なる
  遂令半秦民  遂に半秦の民をして
  殘害為屍物  殘害せられて屍物と為らしむ

フクロウが枯れた桑の枝に鳴き、野鼠が穴を出入りする、夜更けに戦場に差し掛かると、寒月の光が白骨を照らしている

あの潼關の戦いで、百万人もいた兵士たちは、速やかに敵に打ち破られ、秦の人々の半分が、殺されて死体となってしまったのだ

  況我墮胡塵  況んや我胡塵に墮ち
  及歸盡華發  歸るに及んで盡く華發なり
  經年至茅屋  年を經て茅屋に至れば
  妻子衣百結  妻子衣百結
  慟哭松聲回  慟哭すれば松聲回り
  悲泉共幽咽  悲泉共に幽咽す
  平生所嬌儿  平生嬌る所の儿
  顏色白勝雪  顏色白きこと雪に勝(まさ)る

ましてこの自分ときては胡の捕虜となり、いま家に帰るに及んですっかり白髪頭になってしまった、数年ぶりにあばら家に到ると、そこには襤褸をまとった妻子が待っていた

慟哭すれば松が風に吹かれて音をたて、泉のせせらぎも泣いているように聞こえる、普段のびのびとしていた息子は、雪のように青白い顔をしている

  見耶背面啼  耶を見て面を背けて啼く
  垢膩脚不襪  垢膩脚襪せず
  床前兩小女  床前の兩小女
  補綴才過膝  補綴才膝を過ぐ
  海圖拆波濤  海圖波濤に拆(さ)け
  舊繍移曲折  舊繍移りて曲折す
  天呉及紫鳳  天呉及び紫鳳
  顛倒在短褐  顛倒して短褐に在り

父親の自分をみると顔を背けて泣き、垢だらけの足には靴下も履いていない、床前の二人の女の子は、ほころびをつくろった着物がわずかに膝を隠すだけ、

模様の海の絵は波のところで裂け、刺繍があちこちに動いてばらばらになっている、天?及び紫鳳の絵もさかさまになったままだ

  老夫情懐惡  老夫情懐惡しく
  數日臥嘔泄  數日臥して嘔泄す
  那無嚢中帛  那(なん)ぞ嚢中の帛の
  救汝寒凜栗  汝が寒くして凜栗たるを救ふ無きや
  粉黛亦解苞  粉黛亦苞を解けば
  衾?稍羅列  衾?稍く羅列す
  痩妻面復光  痩妻面復(また)光り 
  痴女頭自櫛  痴女頭自ら櫛ずる
  學母無不為  母を學んで為さざる無く
  曉妝隨手抹  曉妝手に隨って抹す
  移時施朱鉛  時を移して朱鉛を施し 
  狼籍畫眉闊  狼籍畫眉闊く

自分は旅の疲れで具合が悪くなり、数日床に臥しては嘔泄する始末、持参した袋の中には、凛冽たる寒気を防ぐための帛もない

それでも粉黛の入った包みを解けば、寝袋やかいまきが出てくる、やせ細った妻の目は輝き、娘たちは自分で髪を梳る

娘たちは母親の仕事をまねして手伝いに余念なく、朝のお化粧には手当たり次第に顔になすりつける、ややして唇に紅を塗ると、ちぐはぐな中にもはなやかな表情となる

  生還對童稚  生還して童稚に對するは
  似欲忘饑渇  饑渇を忘れんと欲するに似たり
  問事競挽須  事を問ひて競って須を挽くも
  誰能即嗔喝  誰れか能く即ち嗔喝せん
  翻思在賊愁  翻って賊に在りし愁を思ひ
  甘受雜亂聒  甘んじで雜亂の聒(かまびす)しきを受く
  新婦且慰意  新たに婦って且つ意を慰む
  生理焉得説  生理焉んぞ説くを得ん

生き返って子供たちにあえる喜びは、飢えや渇きを忘れさせてくれる、子供たちはひっきりなしに質問しては、我が髯を引っ張ったりするが、どうしてそれを叱ることなどできようか

翻って賊にとらわれていたときのことを思うと、この喧騒ぶりは何の気にもならぬ、家に帰って心を慰めることができれば、暮らし向きのことなど口には出せぬ

  至尊尚蒙塵  至尊尚塵を蒙る
  几日休練卒  几日か卒を練るを休めん
  仰觀天色改  仰いで天色の改むるを觀
  坐覺妖氛豁  坐ろに妖氛の豁なるを覺ゆ
  陰風西北來  陰風西北より來り
  慘澹隨回乞  慘澹として回乞に隨ふ
  其王愿助順  其の王助順せんことを愿ひ
  其俗善馳突  其の俗善く馳突す

粛宗はいまだに塵を避けて行在所におられる、いつになったら兵を訓練しないでもすむのだろうか、それでも天を仰ぎ見れば、その色はやや改まり、ようよう戦乱の気配が治まりそうにも覚えられる

陰気な風が西北から吹いてきた、回?とともにやってきたのだ、回?の王は唐に服属し唐を助けたいと申し出ている、その兵は勇猛果敢なことで知られている

  送兵五千人  兵を送る五千人
  驅馬一万匹  馬を驅る一万匹
  此輩少為貴  此の輩少(わか)きを貴しと為す
  四方服勇決  四方勇決に服す
  所用皆鷹騰  用ふる所は皆鷹騰たり
  破敵過箭疾  敵を破るは箭疾に過ぎたり
  聖心頗虚佇  聖心頗る虚佇
  時議气欲奪  時議气奪はれんと欲す

送られてきた兵は五千人、馬の数は一万匹、彼らは若者を尊重し、その勇敢なことで周辺を服従させている

兵士たちは鷹のように高く飛び上がり、矢のように早く走り回る、そんな彼らを粛宗は淡々と受け入れようとしている、一方世論には彼らの勢いを恐れているものもある

  伊洛指掌收  伊洛は掌を指して收めん
  西京不足拔  西京は拔くに足らず
  官軍請深入  官軍深く入らんことを請ふ
  蓄鋭可倶發  鋭を蓄へ倶に發すべし
  此舉開青徐  此の舉青徐を開かん
  旋瞻略恒碣  旋(また)瞻ん恒碣を略するを
  昊天積霜露  昊天霜露積み
  正气有肅殺  正气肅殺たる有り
  禍轉亡胡歳  禍は轉ず胡を亡さん歳
  勢成擒胡月  勢は成る胡を擒にせん月
  胡命其能久  胡命其れ能く久しからんや
  皇綱未宜絶  皇綱未だ宜しく絶えざるべし

伊洛は簡単に取り戻すことができよう、西京は抜くまでもなく陥落させられるだろう、官軍は勢いに頼って深く攻め寄せることを願い出、俊英の兵士たちをそろえて回?とともに出陣しようとする

今回の出陣で青州、徐州を回復し、また恒山、碣石をも攻略するだろう、天空には霜露が積み重なり、正気は粛々としている

胡を亡ぼす歳、災いは転じて福となり、胡を捕虜にする月、漢の勢いは余るだろう、胡の支配はいつまでも続かぬ、唐の王統も絶えることはない

  憶昨狼狽初  憶ふ昨狼狽の初め
  事与古先別  事古先と別たり
  奸臣竟?醢  奸臣竟に?醢にせられ
  同惡隨蕩析  同惡蕩析に隨ふ
  不聞夏殷衰  聞かずや夏殷の衰へしとき
  中自誅褒妲  中に自から褒妲を誅せしを
  周漢獲再興  周漢再興を獲たり
  宣光果明哲  宣光果して明哲なり
  桓桓陳將軍  桓桓たり陳將軍
  仗鉞奮忠烈  鉞に仗(よ)って忠烈を奮ふ
  微爾人盡非  爾を微(か)かば人盡く非なり
  于今國猶活  今に於いて國猶活なり

思い起こすに昨年変が起こったとき、粛宗の取られた処置は昔とは違っていた、奸臣は刑罰に処せられ、仲間の悪党どもは追放された

夏殷が衰えたとき、その原因を作った褒似、妲姫を朝廷自ら誅殺したことを聞いたことがないだろうか、周も漢も再興を果たした、宣帝、光帝は明哲だったのだ

勇猛な陳将軍は、鉞(まさかり)をふるって忠烈ぶりを発揮した、汝がいなかったら他の人では役に立たなかったろう、おかげで国土は生き生きしてきた

  凄涼大同殿  凄涼たり大同殿
  寂寞白獸闥  寂寞たり白獸闥
  都人望翠華  都人翠華を望み
  佳气向金闕  佳气金闕に向ふ
  園陵固有神  園陵固より神有り
  洒掃數不缺  洒掃數缺けず
  煌煌太宗業  煌煌たり太宗の業
  樹立甚宏達  樹立甚だ宏達なり

都の大同殿は凄涼として、白獸闥は寂寞たるままだ、人々は天子の旗が再びひらめくのを待ち望み、それに答えてめでたい兆しが行在所のほうから都へむかって立ち上ってくる

皇室の御陵には先王たちの御霊が宿り、それを洒掃する数が欠けたことはない、煌煌たる太宗の業を受け継いで、唐の王朝はいや栄えるばかりなのだ






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