漢詩と中国文化
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彷徨:魯迅の文学世界


「彷徨」は、魯迅第二の短編小説集であり、かつ彼の最後の小説集にもなった。1924年から翌年にかけて執筆した短編小説11篇を収めている。この時期は中國の革命運動が沈滞し、各地に軍閥が割拠して、中国社会に大きな暗雲が垂れ込めていた時期である。俗に五四退潮期などと呼ばれている。そんな時代背景もあったのか、ここに収められた作品の多くは、「吶喊」で展開したテーマ、すなわち中国社会の前近代性の告発というテーマを引き継ぎながら、それについての内省を一層深めるというスタンスをとっている。

「吶喊」の諸作品にあっては、頑迷固陋な中国人と中国社会がストレートに描写されていたのに対して、「彷徨」の諸作品の中では、知識人を主人公として登場させ、その知識人の目を通して、中国社会や中国人の印象を語らせるという方法をとっている。知識人の目というフィルターが加わることで、展開される出来事や光景に、重層的なパースペクティブが生じるわけである。

こうした方法を最も意識的に用いているのは、「酒楼にて」、「孤独者」の二作品である。どちらにも、魯迅の分身と思われる語り手の外に、その友人が出てくる。二人とも知識人である。知識人ではあるが、中国の前近代的な因習に取り囲まれて生きている。そんな彼らの目には、そうした因習が馬鹿げたものに見えるし、そうした因習に縛られて生きている民衆が憐れにもみえるが、だからといって、自分では何をするというのでもない。というより、何もできない。何もできないばかりか、因習に打ちのめされて死んでいく人々を、手をこまねいて見ているばかりである。そうした知識人のやるせない思いを通して、中国社会の宿業というべきものが、重層的にあぶりだされてくるわけである。

「酒楼にて」では、旅先の町で偶然出会った古い友人との会話の模様が描かれている。その友人は、所要で故郷の町に帰ったついでに、ある女を訪ねた。その女は友人の幼友達のようなもので、友人の母親にも可愛がられていたという。そこで母親が、その女性に土産を持っていってやるようにいった。母親のいいつけどおり、友人が土産を携えてその女の家を訪ねてみると、もう死んだという話を聞かされる。その話というのが、非常に悲しい話で、女は生きる喜びを味わうこともなく、それこそ暗闇に呑み込まれるように死んでいった、という話なのだった。友人からそれを聞かされた魯迅の分身は、どうという感想を漏らすこともなく、その友人と淡々と別れたというのが結末になっている。つまり、いくら悲惨な話だからと言って、自分がそれに付け加える言葉など、どこにも見当たらぬというわけなのであろう。

「孤独者」は、文字通り天涯孤独で、誰とも心を通じ合えぬ男の物語である。語り手である魯迅の分身は、その男と二度出会った(細かい出会いを除けば)のであったが、そのいずれもが、葬式の場面においてであった。最初の葬式は、その男の祖母の葬式、二度目の葬式はその男自身の葬式である。

祖母の葬式を出すにあたって、近所の人たちは男が何か突拍子もないことを言いだすのではないかと心配した。というのもその男は「西洋かぶれの新党」であり、これまでもメチャクチャなことをやってきたから、祖母の葬式に当たっても、伝統を無視して奇妙なことをするかもしれないと思ったからである。ところが、近所の人の予想に反して、男は何も言わずに伝統通りに葬式を執り行った。つまり、祖母の遺体に自ら経帷子を着せ、その後に拝礼を行い、号泣を行う。ついでまた拝礼があり、号泣があって、棺の蓋に釘をうつ。しかし、その時に及んで奇妙なことが起きた。男が涙を流して泣き始めたのである。

男は何故泣いたのか。後日男は語り手に向かって次のように言ったという。

「ぼくはあの時、どうしたわけか、祖母の一生が高麗絵のように目の前に浮かんだんだ。われとわが手で孤独を作りだし、それをまた口の中に入れて噛みしめていた人間の一生がさ。しかもだ、そういう人間は、非常にたくさんいるような気がしたのだ。そのたくさんの人間が、ぼくを無性に泣き叫ばせたわけだ。もっとも、あの時ぼくが、あまり感傷に走りすぎていたのも大きな原因だったかもしれないが・・・」

つまりこの男は、自分の祖母の死に、中国の民衆のはかない人生模様を重ねあわせて、おもわず泣き叫んだというのである。

この男が死んださいに、親戚が現れてどのくらい財産を残したかと聞いた。男は生前かなり金を儲けたにかかわらず、それを湯水のごとく費消して、ほとんど何も残さなかった。だが、男の葬式は伝統にのっとって厳粛に行われ、男のために拝礼したり号泣したりするのもいた。その様子をみた語り手は、複雑な気持でその場を去った。

こういうわけで、どちらの作品も、中国社会の因習的な有様を、知識人の目を通して淡々と描いている。あまりに淡々としすぎて、観念的に走るきらいもある。だが、こういったところは、魯迅の小説の特徴の一つだといえる。観念的に描くことによって、そこには対象との距離が生まれるが、その距離が一種の遊びの感覚をもたらして、作品に深みと彩りを添える効果をもたらす。だが、距離を測りかねると、薄っぺらな反省に陥る危険もある。これらの作品がどちらの場合なのか。その評価は、読者にまかせよう。






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