漢詩と中国文化
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訪陶公舊宅:白楽天を読む


白楽天が左遷された地九江は、陶淵明の故地として知られるところである。日ごろから陶淵明に心酔していた白楽天は、陶淵明縁の場所を訪ね、その遺風を慕う詩を詠んだ。すなわち、「陶公の舊宅を訪ふ」と題する五言古詩とその序文である。

余夙慕陶淵明爲人、往歳渭上閑居、 嘗有效陶體詩十六首。 今遊廬山、經柴桑、栗里、思其人、訪其宅、 不能默默、又題此詩云

余夙に陶淵明の人となりを慕ふ、往歳渭上に閑居し、 嘗つ陶體に效ふ詩十六首有り。今廬山に遊び、柴桑、栗里を經、其の人を思ひ、其の宅を訪ひ、默默たる能はず、又此の詩を題すと云ふ(渭上:渭水のほとり、母親が死去したとき白楽天はここで裳に服した、柴桑:陶淵明の生まれた地、魯山の麓にある、栗里:陶淵明が火事あった後移り住んだ地)

  垢塵不汚玉  垢塵 玉を汚さず
  靈鳳不啄羶  靈鳳 羶(なまぐさ)きを啄まず
  嗚呼陶靖節  嗚呼 陶靖節
  生彼晉宋間  彼の晉宋の間に生まる
  心實有所守  心は實に守る所有れど
  口終不能言  口は終(つひ)に言ふ能はず
  永惟孤竹子  永く孤竹の子が
  拂衣首陽山  衣を首陽山に拂ひしを惟ふ

垢塵は玉を汚すことはないし、靈鳳は生臭いものを食わない、ああ、陶靖節は晉から宋への変わり目に生また(晉宋の間:東晋から宋への王朝の変わり目)

心には晋に忠誠を誓っていたが、それを口にすることはなかった、長らく孤竹の子である伯夷・叔正が、衣を払って首陽山に隠れたことを思ったことだろう(孤竹子:伯夷・叔正のこと、王朝が交代すると首陽山に隠棲して新王朝に使える事をしなかった)

  夷齊各一身  夷齊 各々一身なれば
  窮餓未爲難  窮餓 未だ難きと爲さず
  先生有五男  先生 五男有りて
  與之同飢寒  之れと飢寒を同じうす
  腸中食不充  腸中 食充たずして
  身上衣不完  身上 衣完(まった)からず
  連徴竟不起  連(しきり)に徴さるるも 竟(つひ)に起たず
  斯可謂眞賢  斯れ眞に賢と謂ふべし

伯夷・叔正はどちらも独身で、飢えるのは自分自身だけだったが、先生には五人の男子があって、飢えをともにした

腹はいつも満ちることがなく、身にもまともな衣をまとわなかった、しかししきりに仕官を勧められてもとうとう応じなかったのは、まことに賢明だったというべきである

  我生君之後  我は君の後に生まれ
  相去五百年  相ひ去ること五百年
  毎讀五柳傳  五柳傳を讀む毎に
  目想心拳拳  目に想ひ 心に拳拳たり
  昔嘗詠遺風  昔 嘗て遺風を詠み
  著爲十六篇  著して 十六篇と爲す
  今來訪故宅  今 來りて故宅を訪ね
  森若君在前  森(しん)として 君の前に在るが若(ごと)し

わたしは君の後にうまれ、その間には500年の歳月がある、それでも五柳傳を読むごとに、目には君の姿を思い浮かべ、心には君を慕っている(五柳傳:陶淵明の自伝五柳先生傳のこと)

(昔、君の遺風を詠んで、16編の詩を作ったことがある、今こうして君の故宅を訪ねれば、あたりは森閑として、君が目の前に居るように感じられる

  不慕樽有酒  樽に酒有るを慕はず
  不慕琴無絃  琴に絃無きを慕はず
  慕君遺榮利  君を慕ふは榮利を遺(わす)れ
  老死此丘園  此の丘園に老死せしこと
  柴桑古村落  柴桑の古村落
  栗里舊山川  栗里の舊山川
  不見籬下菊  籬の下に菊を見ずして
  但餘墟中煙  但だ墟中の煙を餘す
  子孫雖無聞  子孫 聞こゆる無しと雖も
  族氏猶未遷  族氏 猶ほ未だ遷らず
  毎逢姓陶人  姓陶なる人に逢ふ毎に
  使我心依然  我をして心依然たらしむ

樽に酒がなくともよい、琴に絃がなくともよい、君を慕うのはそのためではなく、君が営利を忘れて、この丘園に老死したことだ

柴桑の古い村落、栗里の古い山川、籬の下に菊を見ることはないが、村落に煙が漂うのがみえる

君の子孫に名のある者はいないが、一族はまだここに住んでいる、陶という姓の人に出会うごとに、慕わしい気持ちになるのだ(依然:したわしく、なつかしいこと)






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